2015年08月01日

明治以後の真砂本町周辺

前回から真砂町や真砂本町周辺について触れています。
太平洋戦争より以前に関する史料が少ないため、漠然とした記述になりそうです。

明治初めごろの郡元村
『鹿児島県地誌』(明治17年頃)によると、藩政時代から明治22年まで郡元村と呼ばれていたそうです。
郡元村は中村と宇宿村の間に挟まれた地域で、村の中央には新川が流れていました。
当時の戸数310戸、内訳は士族101戸・平民209戸。
人口は、男771人(士族124人・平民547人)、女759人(士族241人・平民517人)。
その他、牝牛6頭・牡馬84頭がいたそうです。

生業としては、「男女皆農を業とす。商を業とする者90戸」あったそうです。
米・糯米(もちごめ)・大麦・小麦・粟・大豆・ソバ・甘藷・塩が作られていました。
郡元村には谷山街道が通っており、人馬の往来も多かったと思われ、人力車6両記録されています。
商家は涙橋から鴨池方面にかけて、街道沿いに並んでいたとおもわれます。
谷山街道、「宇宿村の界(さかい)に至る長さ93町6間(約10.1`)、広さ2間(約3.6m)」であったそうです。

自然物
郡元村の景観に関する記述があり、郡元村には鶴ヶ崎と満ヶ崎と呼ばれる二つの砂州があったようです。
鶴ヶ崎
「長沙、村の東にあり海中に出ること凡二丁、田上川海に注ぐ所なり。其地形、円なり。」
鶴ヶ崎は今の鴨池中学校もしくは、その先の三和町の一部にかかっていたかもしれません。
現在、交差点や公園、橋、バス停の名前として残っています。

満ヶ崎(みつがさき)
「鶴ヶ崎に対す、長沙海中に出る、凡一丁地形尖形」
満ヶ崎は、現在の東郡元町から新栄町の一部であったと思われます。
昭和10年、この辺りには競馬場が鴨池町から移転してきています。

中郡宇村の時代
明治22年(1899)、町村制が施行されると鹿児島近在のうち、郡元村・宇宿村・中村、3つの村が合併して「中郡宇村(なかこおりうむら)」が誕生しました。
これによって、藩政期の郡元村は中郡宇村の大字、「郡元」となり、村役場は一之宮神社付近に設置されました。

中郡宇村が注目されるのは、鹿児島紡績鰍ェ出来る大正6年のことになります。

鹿児島紡績
第一次世界大戦のよる戦争特需によって、日本経済は活況を呈し始めました。
船はいくら造っても足りないという状態で、海運業はもっとも繁昌し、成金と呼ばれる経営者が現れるようになりました。
それに伴い、他の国内産業も勢いを得て、大戦中の四年間に銑鉄の生産は2倍に跳ね上がりました。
重工業や化学工業を中心に、軽工業にいたるまで大きく発展したのでした。

好景気の波は鹿児島県下にも波及し、会社や工場の設立が相次ぐといった具合でした。
それまでの鹿児島県、消費需要は小さい上に工場立地に有利ではないとことから、本格的な会社・工場は少ないものでした。
しかし、好景気の波に乗って零細な会社や工場が次々と設立されていきました。
中には実態のない、投資目的のみの企業もあったようです。
それでも投資意欲は増すばかりで、バブル経済という側面もありました。

こうした経済環境のなか、東京で一財産築いた鹿児島出身の宇都宮金之烝が資本金200万円で、大正6年鹿児島紡績鰍郡元に建設しました。
工場には30mを超える鉄筋コンクリートの大煙突がそびえ、勢いよく煙を吐き始めました。
女工2000人、男工400人という鹿児島県下では前例のない、大規模な工場でした。
鹿児島市史T(昭和44年刊)によると、「郡元町消防分遣隊から鴨池小附近のへんにあった」とあります。
昭和40年の地図と現在のものを見るに、大勝病院から鴨池小近くまでの敷地、真砂本町のほとんどが工場敷地であったようです。

城山のドン、鴨池のピー
西郷竹彦さんの『城山のドン』というエッセーに、この工場と思われる記述がでてきます。
「わたしの小さいころのことですが、城山のてっぺんに、一門の大砲がすえてありました。(途中略)それこそ雨の日も風の日も、正午になると、その砲台から、ドーンと空(くう)をうちならして刻(とき)を知らせました。
城山のドンがなると、それにこたえるように、鴨池浜の紡績工場の汽笛が、ピーとなりわたるものでした。
すると、お台所で水仕事などしていた母親は、仕事手をとめ、そしていそいで柱時計の針を、チンチンチン…と12時にあわせました。
遊びに夢中になって、おひるをたべるのも忘れていたわたしたちは、そのとたん、母親のしたくしてくれるお昼のお膳が目にうかび、いっぺんにお腹がペシャンコにすいてしまうのです。そうなると、もう、遊びどころではありません。
“ドンがなった、ピーがなった、飯(まま)たもれ…”と歌いながら、わが家の台所へかけて帰っていくのです。」

鹿児島紡績から大日本紡績鹿児島工場へ
鹿児島紡績の時代、原料のアメリカ綿は大阪から転送されていました。製品の地元消費は少なく、大部分は加工してインドネシアやインド、エジプト方面に出荷されたそうです。
労働力は得やすかったのですが、原料の綿や運賃は高いものでありました。
原料のアメリカ綿は大阪に輸入されると、それを鹿児島港に回していました。
そして鹿児島港から郡元の工場までは、荷馬車で運ばれていたそうです。

こうしたコスト高と県内消費力の弱さと大戦不況によって、大正13年(1923)3月をもって大日本紡績鰍ニ合併することになりました。
大日本紡績且ュ児島工場となった後も、経済不況によって経営合理化・操業短縮といった縮小ばかりであったそうです。

郡元沖が埋め立てによって飛行場が完成すると、この地は海軍航空隊が接収することとなりました。
昭和16年大日本紡績且ュ児島工場は閉鎖となり、航空隊の基地となりました。
紡績機の大部分は上海工場に移され、従業員は中京地区の各工場に転居となったそうです。

次回は、鹿児島飛行場建設と海軍航空隊について触れてみたいと思います。
posted by ぶらかご.com at 23:38| Comment(0) | 鹿児島の近代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする