2016年06月12日

永吉町の読み方

鹿児島市小野町に、「水車館機織場跡」と刻まれた石碑が建っています。
旧藩時代に永吉村にあったことから、多くの書物が「永吉水車館機織場跡」として紹介しています。

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たとえば、『鹿児島市の史跡めぐり』(鹿児島市教育委員会・平成11年)では、「永吉水車館機織場跡(ながよしすいしゃかんはたおりばあと)と記しています。
鹿児島市の史跡に関する書物の多くは、この呼び方をしているようです。
変わったところでは、『鹿児島市西部の歴史』(四元幸夫・平成13年)で、「ながよしすいしゃかんきしょくじょうあと」と記しています。

この石碑、昭和15年(1940)の紀元二千六百年を祝して建てられたものだそうです。この祝典行事は大規模な国家行事であり、その意義は小さくありません。これについては、後日改めて触れることにします。
この石碑は、江戸時代の水車館機織場跡と支那事変以後の歴史を物語っているものと言ってもよいかと思います。

さて、話を水車館機織場跡に戻します。
「水車館機織場跡」の名称は、どうも行儀が良すぎるような気がします。学者や官僚が
昭和4年の「鹿児島市史跡地図」には、永吉・田上ともに水車館機織場跡の記載がありません。昭和15年以前には、石碑のようなものはなかったかもしれません。
庶民たちは、なんと言い伝えてきただろうか?

『鹿児島之史蹟』(林吉彦・昭和5年)によれば、「ハタ場」と呼んでいたようです。
また、『郷土はらら』(原良小学校編・1968年)では、「水車館(すいしゃやかた)」と記されています。
とくに「すいしゃやかた」という呼び方は、庶民たちが言い伝えてきた名称と思われます。
用水路の水の力を使って回る水車は、人々の記憶に残りやすかったと思われるからです。
今では、そば茶屋の店先で見るばかりとなってしまいました。

さて、古い南日本新聞に“鹿児島ならでは”の呼び方が掲載されていました。

なげしすいしゃんやかたあと 
昭和45年2月17日付南日本新聞夕刊に、「鹿児島あちこち」というコラムが掲載されています。「永吉水車館跡」、“なげしすいしゃんやかたあと”と読み仮名がふられていました。
おそらく、この読み方も庶民たちが呼び習わしたものであったかもしれません。

筆者は「なげし」という呼び方に心当たりもあり、調べてみることにしました。
筆者よりかなり年上の先輩方に尋ねたところ、3人の方が「なげし」という呼び方を覚えておられました。
原良町出身70代のご婦人二人、上荒田町出身60代半ばの紳士一人。
原良町出身のご婦人によれば、「原良ン〇〇、なげしン〇〇」といった子供同士の諍いもあったそうです。

「なげし」に関する史料を探してみることにしました。
手始めに『鹿児島県の地名』(平凡社)と『角川日本地名大辞典46鹿児島県』にあたってみました。

なげし
『角川日本地名大辞典46鹿児島県』によれば、永吉の「地名は永遠に肥沃な土地であることを願ってつけられた」とあります。
残念ながら、同書は出典先を書いておりません。

『鹿児島県の地名』(平凡社)によれば、文保二年(1318)三月十五日、島津忠宗(道義)は嫡子の貞久に鹿児島郡と同郡「なかよし」などをゆずっている(島津道義譲状・島津家文書)とあります。
また同書では、弘治四年(1558)正月吉日の島津氏老臣連署坪付(旧記雑録)には、池上権現領弓場の返地として浮免「永よし名」二反などがみえる。とあります。
『鹿児島県地誌』(明治17年)では、「ナガヨシ」とカタカナで読みがふられています。

最後に『寛政十二申年写之 諸郷村附並浦附 盛香』という本をめくってみました。
永吉村の項に、「なげし」と読み仮名がふられていました。
少なくとも、1800年頃には「なげし」という呼び方はあったようです。

同書で読み仮名をつけている村名は、以下のようになります。
「犬迫村」−「いざこ」
「草牟田村」−「そんた」。 
草牟田は「そむた」という呼び方もあったようですので、「む」が「ん」へと変化したのかもしれません。
「郡元村」−「くいもと」
「比志嶋村」−「ひちしま」
「皆房村」−「けぼ」
「西之別府村」−「にしのびゅう」
「華野村」−「けの」

上に記した読み仮名は、当時の村人たちが使っていた呼び名を記載していると思われます。
以上のことから、官の方では「ながよし」と呼び、庶民の方では「なげし」と呼んでいたと言っていいかもしれません。

さて、「なげし」という呼び方を覚えている年齢的なボーダーはどの辺か知りたいと思うのですが、筆者一人では無理なので、地元メディアで調査してもらえると嬉しい限りです。

昭和45年2月24日付南日本新聞
古い南日本新聞の記事のおかげで、「なげし」に出会うことができました。
記者さんは、どういった思いでコラムを書かれただろうか。
ヒントとなるかもしれない記事が、昭和45年2月24日付南日本新聞南風録に掲載されていました。

当時、高麗橋の“架け替え”と“保存”で大きな問題になったそうです。
保存となったのですが、南風録は当時の世相を次のように記しています。

「開発優先という意識が露骨に感じとられる。困ったことに、このような開発第一の風潮は、国民の間にも広まりつつあるのではないか。
経済の発展が、そのまま自然の破壊、文化財の消滅につながるのが、戦後の特徴といえる。」

“なげしすいしゃんやかたあと”とわざわざ読み仮名をつけたコラムを書いた記者さんも、南風録の執筆者と同じような心持ちであったのではないか。
高度成長期といわれる時代にあって、二人の新聞記者は失われていくものを敏感に感じ取っていたのかもしれません。
これは、筆者の勝手な想像にすぎません。
posted by ぶらかご.com at 22:44| Comment(2) | 地名・町名にまつわる話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする