2023年11月20日

ちょっと待った!

せんだって、「日本平和大会in 鹿児島」に参加した。労働組合で活動している友人に誘われてのことである。 なんでも、「鹿児島の戦争と平和の歴史を学ぶつどい」と題する分科会があるらしい。分科会でどのような報告があるか、興味をそそられての参加である。

 分科会の冒頭、司会者が鹿児島市の空襲について語り始めた。同市の空襲は8回とされるが、6回と考えている旨の説明があった。なんでも、戦災規模を考えたうえでのことらしい。
共感しかねる。空襲の回数が増えるのはまだしも、減らされるとは…。

 会の主催者も戦災について独自に追究しておられるのだろう。おそらく、『鹿児島市史2巻』と『鹿児島市戦災復興誌』、体験談を中心にして戦災を組み立てていると思われる。

 そこに米軍資料を加えて空襲について考察してみる。すると、『鹿児島市史2巻』と『鹿児島市戦災復興誌』に記された空襲の実態とは異なることに気づく。
たとえば、昭和20年3月18日の空襲について両書をみてみる。

 「午前7時50分 グラマン40機が・・・」とある。
米軍資料『AIRCRAFT ACTION REPORT』を時系列に並べると、第一陣は午前7時前後である。空母ハンコックから発進したコルセア16機が、鹿児島飛行場を攻撃している。
同資料に記された目標上空到達時刻は、「9:05」とあるが、発艦と着艦の時刻から推定するに、タイプミスと思われる。

 そうして、午前7時30分から9時台まで断続的に鹿児島飛行場は攻撃を受けている。また、午後14時45分から午後16時ごろまで攻撃を受けている。
最終は午後21時10分から22時10分の間に鹿児島飛行場は攻撃されている。
筆者が調べた限りで、この日に鹿児島飛行場を攻撃した米軍機は201機にのぼる。

 もう一例あげてみる。昭和20年3月29日、鹿児島飛行場は米軍艦載機から攻撃を受けている。『AIRCRAFT ACTION REPORT』と日本海軍の資料「商船相州丸戦闘詳報」に空襲に関する記述がある。
相州丸の資料によると、午後13時10分に鹿児島飛行場が攻撃されていると記している。

 『鹿児島市史2巻』と『鹿児島市戦災復興誌』にある空襲の記述を鵜呑みにしてはならないのではないか。昭和20年3月18日の空襲に関する記述についていえば、どのような資料にもとづいているのか考える必要がある。おそらく、本田斉著『あれから10年』に記述をそのまま採用しているのではないかと、筆者は考えている。なんら検証することもなく。

 今年は私生活がとてつもなく忙しく、メディアが伝える鹿児島の空襲報道に対して静観していた。報道に接しているうちに、これではいけないと強く思った。腑に落ちぬ点が少なくない。やはり、しっかりした根拠でもって、指摘しなければならないと思っている。
鹿児島市の空襲について考えるに、従来どおりの説明を次の世代に渡してならないのでないか。
posted by 山川かんきつ at 08:15| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする