今月3日付朝日新聞の「日曜に想う」を読んで、疑問が沸いた。
軍需施設など特定の照準を破壊するよりも、街全体を焼き尽くす方が「効果的」だとして、高性能カメラによる空撮や緻密なデータ解析を重ねて実行されたのが、1945年3月の東京大空襲だった。
記事から察するに、東京大空襲は昭和20年3月10日を指すようだ。
『東京大空襲・戦災資料センター図録 いのちと平和のバトンを』によると、3月10日の空襲を「五大空襲」のひとつとして記す。
3月10日 下町方面への空襲 40.92㎢焼失
4月13日から14日 東京西北部への空襲 29.25㎢焼失
4月15日 東京南部への空襲 15.53㎢焼失
5月24日 山の手方面への空襲 13.72㎢焼失
5月25日から26日 山の手方面への空襲 43.51㎢焼失
8月2日 八王子空襲
東京の戦災報道に接していると、3月10日の空襲のみを取り上げているようだ。
五大空襲のほかにも、昭和19年11月24日、1月27日、2月25日にもB29による爆撃を行われている。
3月10日の空襲を「東京大空襲」と表現するから、その他の空襲がかすんでしまう。
この日の空襲は、戦術爆撃から戦略爆撃へと転換した重要な事件である。
また、爆撃高度25000フィートから30000フィートといった低高度から爆撃でもあった。
米軍の資料「tactical mission report no.40」は記す。
The incendiary night attack of March 1945 on Tokyo , the report of which follows , embody a complete change of tactics for the XXT Bomber command .
米軍は記録をしっかり残している。攻撃の意図を踏まえたうえで、新聞社は報道してほしいところである。しかも、3月10日の空襲に偏った報道をしている印象が強い。
戦災報道の偏りは、鹿児島市の空襲もそうである。
毎年6月17日になると、地元メディアは「6月17日鹿児島大空襲」と題する報道をする。だいたい、空襲体験者の証言を中心に描かれる。平岡正三郎さんが終戦後に撮った鹿児島市の写真が紹介されるのがお決まりである。
空襲の悲惨さは伝わるのだが、実態はぼんやりしている。
この日の空襲は、6月17日から18日にかけて行われている。「Tactical Mission Report no. 206」に、初弾投弾時刻と最終投弾時刻が記されている。およそ106分間続いた攻撃だった。
この日の空襲は重要な意味をもつ。それは、第21爆撃機集団は中小都市空襲を始めたからである。鹿児島市と浜松市、四日市市、大牟田市などが6月17日から18日にかけて攻撃されている。
米軍側の資料も生かさなければ、空襲の実態は見えてこないかもしれない。悲惨さは伝わるでしょうが・・・。
鹿児島市の場合、「6月17日鹿児島大空襲」ばかりの報道になっている。同市は8回の空襲を受けたそうであるが、6月17日以外はほとんど取り上げられない。
鹿児島の空襲は、どのように伝えられてきたか。行政やメディアは、どのような役割を果たしてきたか。などなど、論点はいくらでも出てきそうである。
■参考文献
「日曜に想う」2023年12月3日付朝日新聞
『東京大空襲・戦災資料センター図録 いのちと平和のバトンを』(東京大空襲・戦災資料センター 2022年)