鹿児島にB29一機 一日の朝支那方面から侵入
一方一日午前九時過ぎ九州に支那方面方面からB29二機が来襲した、北九州ならびに南九州に各一機が分散して偵察の後脱出した、何れも投弾はなかったが敵機が鹿児島にまで始めて(原文のまま)飛来したことは注目に値ひする。
「B29二機」と「敵機が鹿児島にまで始めて飛来」との2ヶ所が、気になった。
資料にあたると、米軍が1945年5月15日に作成した資料に、当日の偵察写真があった。

KOKUBU AIRFIELD
Sortie 40BG / 5MF2 / XXBC , 1 Jan 1945


RONCHI ( KITAHARA ) AIRFIELD
Sortie 40 BG / 5MF2 / XXBC , 1 Jan 1945
KOKUBU AIRFIELDは国分第一飛行場を、RONCHI ( KITAHARA ) AIRFIELDは国分第二飛行場をさす。二枚の写真はいずれも、1945年1月1日に第20爆撃機集団第40航空団が撮影したと記している。
昭和20年1月1日、もう1機が鹿児島県上空で偵察写真を撮っていた。

ARIAKE WAN
From 462 BG / 5MF1 / RO – 70 of 1 Jan 1945
Looking northwest at north shore of ARIAKE Wan , showing OYATORI valley and FUKUSHIMA beaches 462 BG / 5MF1 / RO52 of 1 Jan 1945
2枚の写真共に、1945年1月1日462航空団が撮影。同航空団は、第20爆撃機集団の所属である。
先に掲げた写真は、鹿児島日報の記事が伝えるとおり、昭和20年1月1日に2機のB29が南九州に飛来したのを裏づけていると思われる。
だが、「敵機が鹿児島にまで始めて飛来」という記事は、考えなおす必要がある。
米軍が1945年5月15日に作成した文書に、鹿児島市を撮影した写真が掲載されている。

「KAGOSHIMA CITY Srotie 444 BG / 4MR50 / XXBC , 26 Dec 1944」と、ある。
直訳すると、「鹿児島市1944年12月26日に第20爆撃機集団 第444航空団所属のB29が撮影」。
また、米軍が作成した地図に次のような記述もある。
Complied in 1945 from aerial photography dated December 1944 and January 1945
直訳すると、1944年12月と1945年1月の航空写真から1945年準拠する。
前回、「1944年の米軍機飛来」で触れたごとく、1944年(昭和19)には米軍機は鹿児島県上空に飛来していた可能性が高い。
より精度をあげるため、第20爆撃機集団の偵察行動を記した文書を精査する必要がある。工藤洋三先生の著作に、『米軍の写真偵察と日本空襲』がある。
同書は第21爆撃機集団の文書をもとに、偵察行動を分析している。
同じやり方で、第20爆撃機集団の偵察行動を分析する必要がある。
■参考文献
『米軍の写真偵察と日本空襲 写真偵察機が記録した日本本土と空襲被害』(工藤洋三2016年)
「1944年米軍機飛来」(鹿児島ぶら歩き)
ラベル:1944年米軍軍機飛来 鹿児島市