2024年02月27日

調査報道の手法

 ひところ、「調査報道」という言葉を目にしていた。同報道がどのようなものか、実感できないため調べてみた。

『安倍政権にひれ伏す日本のメディア』と題する1冊に、目を通した。
著者はマーティン・ファクラ―。当時、ニューヨークタイムズ東京支社長。
BBCをはじめとする海外メディアは、日本のメディアに対して辛辣な内容の記事をホームページに載せている。

 同書によると、調査報道は確かな情報を素材に一つのストーリーを組み立てて読者に伝えること。また、たしかな事実を正しく並べたことで導き出された結論が必要で、自分の意見を入れてはいけないと、記す。

調査報道の手順
 調査報道は、「選別・整理」「fact 裏づけ」「narrative 物語」「結論」といった手順を踏むらしい。

 情報を集めて選別する。選別と裏づけは、同時におこなう作業であろう。そうして、narrativeを作る。
「いつ」「どこで」「なにが」「どのように起きたか」「なぜそのようなことが起きたのか」。
全体像を意識しつつ描くらしい。

 そうして、結論になる。そこには教訓が示されるが、自分の意見を入れてはいけないそうだ。あくまで、たしかな事実を正しく並べたことで導きだされた結論になる。

 筆者も似たようなことをしている。空襲体験談に目を通す際に、評価を下している。
きわめて貴重な体験談もあれば、記憶が混合していないだろうか、といったものもある。
違和感をおぼえる体験談は、泣く泣く選別するといった状況になる。

 鹿児島市史第2巻と鹿児島市戦災復興誌が記す空襲の記述は、やはりおかしい。
空襲の回数もおかしければ、それぞれの空襲に関する記述も違和感をおぼえる。
そこに記された空襲の記述は、どのような記録をもとにして書かれただろうか、と。
どうのようにして裏づけを取ったろうか。両書に目を通すたびに、疑問に感じる。

 鹿児島市史と鹿児島市戦災復興誌の空襲の記事は、終戦から10年以上たって出版された個人の回想録がベースになっているのではないか。本田斉著『あれから10年』をベースにしている気がしてならない。本田さんは戦時中、鹿児島市防空課長の職にあったのだが、同書は個人の回想録である。しかも、終戦から10年も経過している。

 米軍資料に目を通すまでは、筆者は『鹿児島市史第2巻』と『鹿児島市戦災復興誌』が記す戦災記事をうのみにしていた。当時の公式記録をもとにして記しているのだろうと、思い込んでいたからである。

 鹿児島市の空襲に関して、調べ直す必要をひしひしと感じている。
それには、調査報道の手法が有効な気がしている。


■参考文献
『安倍政権にひれ伏す日本のメディア』(マーティン・ファクラ―、双葉社2016年)
「前ワシントンポスト編集主幹 Martin Baron インタビュー」(2022年1月21日付朝日新聞)
「金平茂紀さんインタビュー」(2022年12月20日付朝日新聞)
posted by 山川かんきつ at 06:04| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年02月13日

向田邦子さんが見た鹿児島市の町なみ

米軍資料に、「TARGET INFORMATION SHEET KAGOSHIMA URBAN INDUSTRIAL AREA」と題する文書がある。直訳すると、「目標情報シート 鹿児島都市工業地帯」。

 文書は鹿児島市の位置や工場、軍事施設などの説明が記されている。鹿児島市街地の住宅地に関する一文に注目した。

Wooden – type, single – story construction is predominant within the residential section, while many of the industrial plants are made of steel and masonry and consist of several stories.

damage assessment kaosima1.jpg


 直訳してみる。
 住宅地は木造平屋の建物が優勢、工場の多くは鉄骨製および石造で、複数階になっている。

 Its population in 1940 was 181,750, with an average population density of 45,000 per sq. mile in the built-up area, but in the congested areas on each side of the river the density is probably substantially higher.

1940年の人口は181,750人、住宅密集地区の平均人口密度は1平方マイル当り45,000人、甲突川両岸の住宅密集地区の人口密度はもっと高いと思われる。

 おそらく、加治屋町と高麗町を示しているのではと考えている。木造平屋の建物が住宅地区に密集していると米軍は分析していたようである。
昭和20年6月17から18日にかけての空襲を考えるうえで、加治屋町は重要な目標となっている。とくに、鹿児島県立第一高等女学校(現鹿児島中央高校)の辺り。
それについては、またどこかで・・・。

 米軍は、鹿児島市の住宅地に木造平屋の建物が密集していると評している。ある作家が、似た感想を著作に残している。向田邦子著『鹿児島感傷旅行』である。

 四十年前の鹿児島市は、茶色い平べったい町であった。目に立つ高い建物は、県庁と市役所と山形屋と、野上どんと呼ばれていた三階建ての西洋館の邸宅ぐらいの、地味な家並みであった。今は、高層ビルであり、色彩にあふれている。
変らないのは、ただひとつ、桜島だけであった。
形も色も、大きさも、右肩から吐く煙まで昔のままである。


 向田さんの目には、鹿児島市街地を「茶色い平べったい町」と映ったようである。
 奇しくも。鹿児島感傷旅行と米軍資料の一文がつながった。


■参考文献
「鹿児島感傷旅行」(『向田邦子全集6』文藝春秋・平成21年)
posted by 山川かんきつ at 07:51| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年02月05日

東京大空襲戦災誌

こんな分厚い本を誰が読むのだろう?
中学生の頃、図書館である本を目にした感想である。数十年後、その本を読むことになるとは思いもしなかった。
『東京大空襲・戦災誌』全五巻である。鹿児島県の空襲を調べるうえで、たびたび参考にしている。




 空襲体験談はもとより、戦災被害を記した公式記録まで収録している。警視庁警務部や消防部などの文書である。目に通すたびに、感心する。

 同書第三巻は、編集に関して次のように記している。

 東京空襲は正確に何回あったのか、警報はいつ出たのか。米国来襲機は何機だったのか、投下弾数は、日本側の戦斗機の実力と実態は、そして被害は―これらを日米両国の軍・政府の公式記録をもって明らかにしようというのが、本書第三巻である。

 “東京”を“鹿児島県”や“県下市町村”と、置き換えるといい。
同書は、空襲について三部で構成されている。
@ 空襲被害状況の記録、公式記録
A 軍・政府の記録
B アメリカ側の記録

 空襲や被災状況を調べるうえで、理想的な内容になっている。
同書は、空襲体験談を公式資料や米軍資料で裏付けるといった姿勢がある。信頼できる一冊である。

 同書の編集方針で次のように結んでいる。

 本巻に収録された資料は決して十分なものとは言いがたい。そして特に欠落している空襲下の軍・政府関係資料の収集は今後も根強く続けていく必要性を、改めて感ずる次第である。

 鹿児島市の空襲を中心に調べているが、被災状況を記した公式資料が見当たらない。体験談と米軍資料とで調べている状態である。体験談のなかには、米軍資料の記述と合致する記述がある。そういう時は、おもわずにんまりとする。
 
鹿児島県の戦災報道に接していると、違和感をおぼえる瞬間がある。
例えば、高射砲に関する記述である。鹿屋飛行場の周辺に高射砲陣地が点在していたらしい。
おそらく、高角砲陣地のことであろう。
高射砲と高角砲、言葉の使い方に気をつけたほうが良い。

 鹿児島県下の空襲被害を調べている方は、『東京大空襲戦災誌』を参考にされたい。
posted by 山川かんきつ at 06:08| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする