2024年03月31日

平和学習へ ひとつの提案

 鹿児島市真砂本町で見つかった不発弾の処理が終わったらしい。今月24日の報道で知った。処理作業は、想定していたよりも早く終わったそうな。
予想をしていたのだが、報道は不発弾の「発見」と「処理」で終わった。
「どうして、そんな所に不発弾が?」と、いった問いに答える報道はなかった。

 鹿児島空基地と鹿児島海軍航空隊が念頭にあれば、報道の仕方も違ったかもしれない。
おそらく、今回の不発弾の件は忘れられてしまうに違いない。一過性の報道である。

 今回、不発弾が見つかった場所は鹿児島市真砂本町。鴨池小学校と鴨池中学校の平和学習にとって絶好の機会かもしれない。
不発弾がみつかった地に、戦時中、ノコギリ状の屋根をもつ建物群が建っていた。それについて、前回「鹿児島市真砂本町の不発弾について」でふれた。

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その他に、滑走路や格納庫、掩体壕、戦闘指揮所、水上基地、滑走台などが戦時中にあった。それは、米軍作成地図や日本海軍の資料にあたると、分かるかと思う。
関心のある生徒さんは、チャレンジしてくだされ。

南小学校・南中学校
 真砂本町を流れる新川をわたり、産業道路をこえると鹿児島市立南小学校と南中学校が出てくる。こちらの生徒さんも、平和学習に取り組むに格好のロケーションにある。
両校ともに、「鹿児島海軍航空隊」をキーワードにして調べてください。両校の校舎は、鹿児島海軍航空隊跡に建っている。


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 1945年7月19日付米軍資料に「SPECIAL SUPPLPLEMENT to DAMAGE ASSESSMENT REPORT NO. 108」がある。「損害評価報告書の特別補足108号」と訳した。
文書に、「Navy Aviation School」と、記された文章がある。直訳すれば、海軍航空学校となるだろうか。戦時中の海軍に、「海軍飛行予科練習生」という言葉があった。予科練である。「Navy Aviation School」は、鹿児島海軍航空隊のことになる。

 損害評価報告書は記す。
80 percent destroyed previous mission

先の作戦とは、昭和20年3月18日の攻撃を指していると考えられる。その攻撃で鹿児島海軍航空隊の建物は、80パーセントが破壊されたと記している。

 南小学校と南中学校の生徒さんは、南鹿児島駅前にそびえる台地にも注目してもらいたい。直立した崖に、無数の横穴壕が戦時中に掘られていたようである。
また、五つの谷があって軍事利用目的の横穴壕があったようであるから、それらも調べてみるといい。
作家梅崎春夫が随筆で、この台地について触れている。参考にしてみてください。

 昭和20年3月18日の空襲で、鹿児島空基地と鹿児島海軍航空隊は大きな打撃を受けた。アメリカ海軍機動部隊にとって、大規模な攻撃であった。この日の空襲を知るために、
先述の4校の校舎が建つ場所と周辺に、どのような施設があったのか。それを知る必要がある。

 『鹿児島市史』と『鹿児島市戦災復興誌』が記すこの日の空襲は、深刻な攻撃だった印象を受けない。また、『戦後60年かごしま戦争遺跡記憶の証人』にも目を通した。
執筆した記者さんは、鹿児島海軍航空隊のことがよく分かっていないようである。また、死傷者数と行方不明者数が記されている。これらの数は、海軍関係の死傷者数という印象を受ける。読んでいて、腑に落ちぬ記述がある。
 これから、さまざまな資料が発見されるだろう。そうして、空襲の実態がようやく分かってくるかもしれない。

 最後に、先述の4校の校舎が建つ敷地は海軍の軍用地跡にあるよ。と、いえば少しは関心をもってもらえるだろうか。


■関連記事
 「鹿児島市真砂本町の不発弾について
 「鹿児島市真砂本町の不発弾
 「昭和20年3月18日の空襲 鹿児島市

■参考資料
『鹿児島市史2巻』(鹿児島市・昭和45年)
『鹿児島市戦災復興誌』(鹿児島市・昭和57年)
『戦後60年かごしま戦争遺跡記憶の証人』(南日本新聞社・2006年)
posted by 山川かんきつ at 16:32| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月17日

鹿児島市真砂本町の不発弾について

鹿児島市真砂本町で発見された不発弾である。
報道に接していると、不発弾の「発見」と「処理」の説明で終わるのではないか。
何かもの足りない。

不発弾がみつかった現場は、新川沿いの老健施設ひまわりの周辺らしい。
なぜ、そこに100ポンド普通爆弾がみつかったのか? といった疑問がわく。
時間を、昭和20(1945)3月18日にまで遡ってみる。
この日、新川の両岸にあった軍事施設は大規模な攻撃を受けているからである。
今回見つかった100ポンド不発弾と関係があるかもしれない。

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 米軍の偵察写真や米軍作成地図、日本海軍などの資料に目を通してみる。
不発弾が見つかった周辺に、屋根の形状がギザギザした建物が集住していたようである。
もとは紡績会社の施設として、一時期、鹿児島海軍航空隊も使用していたようである。


 同航空隊の練習生が戦後に作成した平面図がある。「ノコギリ形屋根」と記している。
米軍資料「AIRCRAFT ACTION REPORT(艦載機戦闘報告書)」に、「SAW TOOTH ROOF」とある。両資料ともに、鋸歯状屋根として認識していたようである。

 鋸歯状屋根をもつ建物群。紡績会社から鹿児島海軍航空隊の施設として使用されたのだが、それ以後が判然としない。米軍の艦載機戦闘報告書にそれとわかる記述がある。

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 上記の図は、鹿児島飛行場周辺にあった施設を知るために作成した。兵舎や格納庫、掩体壕、滑走台などをしるしてみた。


艦載機戦闘報告書
 今回、鹿児島市真砂本町で発見された不発弾は、100ポンド普通爆弾とみられている。
「鋸歯状屋根への攻撃」と「100ポンド普通爆弾」にしぼって、米軍の艦載機戦闘報告書をながめてみる。

 昭和20(1945)年3月18日、鹿児島飛行場と新川の両岸にあった施設は大規模な攻撃を受けている。艦載機戦闘報告書に目を通すと、100ポンド普通爆弾を投下した艦載機があった。「TBM3(アベンジャー)」である。攻撃は3回。

1. 空母サンジャシント
TBM9機が、100#GPを搭載して同空母を午前6時45分に発艦。目標上空到達時刻、午前8時45分。「Aircraft Assembly plant west of hangers(格納庫西側にある機体組立工場)」に同爆弾71発を投下した旨を記している。

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 機体組立工場を攻撃中の写真である。(国会図書館デジタルコレクション)

2. 空母バターン
 TBM9機とF6Fヘルキャット8機が、同空母を午前6時45分に発艦。目標上空到達時刻は、午前8時50分。「Large plant with saw tooth roof(鋸歯状屋根をした大工場)」に100ポンド爆弾20発を投下。

 報告書は攻撃目標の工場について、こう記している。
 Six VT pilots aimed at the “building with saw tooth roof “, possibly an aircraft assembly plant (6機の雷撃機パイロットが、航空機組立工場の可能性がある鋸歯状屋根の建物に狙いを定めた)

3. 空母フランクリン
 TBM15機が同空母を午前7時に発艦。目標上空到達時刻は午前9時。「Textile plant(繊維工場)」に100ポンド爆弾を1発投下と、記す。

 同艦は昭和20(1945)3月19日に、特攻によって大破。火災によって艦載機戦闘報告書の原本は失われ、2週間後に再度作られたとある。投下された爆弾数と出撃数と合わない気がしている。同報告書の内容について、すこし注意する必要がある。

 「100ポンド普通爆弾」と「建物」を中心にして記した。米軍艦載機は、同工場に対してロケット弾や500ポンド爆弾などを使って攻撃している。
米軍が攻撃した工場は、おそらく「第22海軍航空廠鹿児島補給工場」であろうと、筆者は考えている。

 同工場に関する書類として、終戦直後に作成された文書がある。新川の河口から見て右側に同工場の「郡元倉庫」として使われた時期があったらしい。
第22海軍航空廠鹿児島補給工場に関する情報は乏しい。存在したのは間違いない。

 鹿児島飛行場への大規模な攻撃があった、昭和20年3月18日を取り上げてみた。同飛行場は、3月29日も攻撃を受けている。そのほかの空襲も調べる必要がある。
鹿児島市真砂本町で見つかった、不発弾に関する手がかりのひとつとして触れてみた。

 あともうひとつ。
米軍の艦載機報告書から、TBMアベンジャーの攻撃を3件とりあげた。
目標上空到達時刻を、あえて記した。それは、『鹿児島市史2巻』と『鹿児島市戦災復興誌』に記された、昭和20年3月18日の空襲に関する記述を再読して頂きたいためである。
posted by 山川かんきつ at 11:28| Comment(1) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月07日

鹿児島市真砂本町の不発弾

 鹿児島市真砂本町の工事現場で、不発弾がみつかったらしい。今月2日付の南日本新聞が報じていた。地元放送局のホームページにも目を通してみる。NHK鹿児島NEWS WEB(3月1日付)に、爆弾に関する詳しい記事が掲載されていた。

 先月9日、鹿児島市真砂本町の再開発の工事現場で、戦時中にアメリカ軍が使用していた100ポンド普通爆弾とみられる不発弾1発が見つかりました。

 「100ポンド普通爆弾」の記述が気になる。どのような根拠によるのだろう?
ネットで検索すると、鹿児島市役所のホームページに詳細が記されていた。

 不発弾に関する情報について
1. 発見の概要
(1) 発見日時
令和6年2月9日(金)11:45頃
(2) 発見場所
鹿児島市真砂本町3‐59
(3) 発見及び確認に至る経緯
上記(2)の発見場所において、地中埋設物撤去工事中に工事作業員が不発弾らしきものを発見し、警察に通報したもの。
同日、19:10から陸上自衛隊第104不発弾処理隊による現場確認が行われ、不発弾であり処理が必要であると、22:10に報告を受けたもの。
(4) 不発弾の形状
米国製100ポンド普通爆弾


 なるほど、「100ポンド普通爆弾」の記述は、自衛隊の報告によるものであった。
アメリカ海軍の艦載機が搭載した爆弾に100ポンド普通爆弾があった。
「100−LB.GENERAL PURPOSE BOMB AN−M30」である。
工藤洋三先生の著書『アメリカ海軍艦載機の日本空襲』に、その爆弾に関する記述がある。

 艦載機空襲で最も多く使用されたのは通常爆弾で、飛行場に駐機する飛行機などを攻撃する場合は100ポンド爆弾が、格納庫などを攻撃する際には500ポンド爆弾が、艦船などに対しては1000ポンドや2000ポンドと通常爆弾を使い分けた。

 昭和20(1945)3月18日、鹿児島空基地と鹿児島海軍航空隊は、大規模な空襲を受けている。今回、不発弾が見つかった周辺に軍事施設があり、艦載機は執拗なまでに攻撃している。それは、米軍資料『AIRCRAFT ACTION REPORT』に記されている。

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 国会図書館デジタルコレクション

不発弾は、このときの空襲で投下されたかもしれない。ただし、アメリカ海軍の資料に依っているから、同陸軍の戦闘機についても考察する必要がある。
ちなみに、沖縄基地から米軍陸軍戦闘機が九州に初めて飛来するのは、昭和20(1945)年5月17日である。

 不発弾処理にあたって、鹿児島市はホームページ上に「警戒区域(避難対象区域)」と題された地図を掲載している。
アメリカ軍の偵察写真と同軍作成地図、元鹿児島海軍航空隊の隊員作成の図を参考にしながら、不発弾の「警戒区域(避難対象区域)」を眺めてみる。

 昭和20年3月18日の鹿児島飛行場攻撃で、米軍艦載機は100ポンド爆弾を投下している。しかも、今回不発弾が発見された周辺に・・・。
次回も引き続き、不発弾に関してふれてみる。

参考文献
 南日本新聞2024年3月2日付 「不発弾24日に処理」
『アメリカ海軍艦載機の日本空襲(工藤洋三・2018年)
「不発弾に関する情報について」(鹿児島市ホームページ 2024年3月6日閲覧)
posted by 山川かんきつ at 12:16| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする