2024年04月23日

鹿児島市田上町の山中に墜落したグラマン機

 先月17日に、「鹿児島市真砂本町の不発弾について」と題する記事を書いた。
不発弾が見つかった周辺に、かつてノコギリ状の屋根をもつ建物群があり、米軍艦載機の攻撃を受けている。
その際、事件が起きた。

 1945年3月18日午前6時45分、空母バターンからアベンジャー9機とヘルキャット8機が発艦。攻撃目標の鹿児島飛行場へと向かう。目標上空到達時刻は、午前8時50分。


19450318 kagoshimaAF battan.jpg

 6機のアベンジャーは、「Large plant with saw tooth roof」に100ポンド普通爆弾20発を投下。搭乗員たちは、鋸歯状屋根への命中と閃光・爆炎を確認している。
対空砲火は激しかったらしい。

「高度2万フィートで、正確にして激烈、絶え間ない対空砲火に遭遇。鹿児島湾の東海岸から、すべての飛行群が回避行動をとった」
「鹿児島の北部と南部で、対空十字砲火に気づき回避」

そうして、1機のアベンジャーが対空火器で撃墜された。米軍資料は記す。

 Ensign MARVIN’s plane was burning along the right wing and was last seen west of Kagoshima after the attack,
(抄訳;マービン少尉機は、右翼が炎上。攻撃後、最後に目撃されたのは鹿児島市西方だった。) おそらく、墜落していく様子を記していると思われる。

 この時、2人の搭乗員が死亡している。
 James A. Marvin海軍少尉とEdward H. Hintz2等射撃兵曹である。

日本側資料
 この日の戦争体験談に目を通してみると、田上町方面へ墜落するグラマンを目撃した証言がある。同時代資料の鹿児島日報は、どのように報じたか。昭和20年3月19日付の同紙をめくってみる。

 山中に醜い残骸 市民の眼前で撃墜される
 午前〇時すぎ白煙を曳いて〇〇山中に焔の錐揉みで突ツ込んで行く醜翼の後を追ふて記者は敵機頭上に在る市街地をひた走りに墜落現場に駈けつけた


 通称垂角迫と云ふ高い山を超えると『居った』松林に蔽はれた畑に醜翼の残骸がブーブーと燃えつづけてゐた。墜落現場には既に〇〇警防団員が駈けつけて燃えつづける機体の劫火を盛んに消し止めてゐた、緑色の機体は正しくグラマン戦闘機だ麦を植えつけた畑の中に一間位突ツ込んで機体はばらばらになってゐた そうしてブスブスと焼けただれた米鬼の醜翼が胴体を逆様にして皇土を汚した天罰を思い知らせてゐる発動機もひん曲って翼もほとんど後形ももない位になってゐる。

 機首を畑に突ツ込んで逆様になった機の胴体の中程から白い毛をむき出しにした米鬼がうつ向きになって焼けただれ、小気味よい惨状をさらしてゐる。


 記事のなかに〇〇とあるのは、伏字。当時の新聞記事によく見られる。「〇〇山中」と「〇〇警防団員」の伏字部分は、「田上」に置き換えるとよい。

山形屋で展示会
 昭和20年3月22日付鹿児島日報に、「敵グラマンの醜翼 廿五日から山形屋で公開 本社主催」と題する記事がある。

 聖地を侵した醜翼残骸を二十五日から一週間鹿児島市山形屋二階で一般に公開することになった、十八日朝突如鹿児島縣に来襲した敵の艦上機群は(以下省略)
本社では鹿児島地区防衛隊の斡旋提供によってグラマン撃墜残骸を一般に公開して敵への憤怒を新たにせんとするものである。


 公開内容は、胴体、翼、機関、砲弾、操縦者の写真、証明書、拳銃、落下傘、撃墜原盤の写真などであったらしい。

終戦直後のこと
 『上区の郷土史21世紀を担う子孫のために』(鹿児島市田上上区町内会)に、注目すべき記事を掲載している。終戦直後、米軍がグラマン墜落現場に訪れたらしい。

 戦後、米軍MP(憲兵)が、当時警防団長(消防団長)だった父を逮捕し、現場検証の折「米兵戦死の地」の立札の意味を質問した。
 父は、薩摩古来のしきたりとして、「敵とはいえ、立派に戦った者は称え、ねんごろに弔う意味だ」と答えたところ、彼等は感心して鄭重にジープで自宅まで送り返してくれた。

 戦後、米軍機が墜落した現場に調査に訪れているのは分かっている。「POW研究会」が、研究報告をネット上で公開しているので、感心のある方はご覧ください。
 米軍は、聞き取り調査を記録として残しているらしい。おそらく膨大な数になるだろう。鹿児島に関する記録も多数あると思われる。
これまで知られていなかった事実が、少しずつ明るみになるだろう。そこには、不都合な事実があるかもしれない。


■関連記事
鹿児島市真砂本町の不発弾について
 http://burakago.seesaa.net/article/502692949.html

鹿児島市真砂本町の不発弾
 http://burakago.seesaa.net/article/502589768.html

昭和20年3月18日の空襲 鹿児島市
 http://burakago.seesaa.net/article/489108677.html

■参考文献
 鹿児島日報 昭和20年3月19日付
posted by 山川かんきつ at 04:49| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年04月10日

紫原台地と鹿児島飛行場周辺 海軍の資料から

「平和学習へ ひとつの提案」と題する記事を書いた。鴨池小学校と鴨池中学校、南小学校、南中学校の生徒さん宛てに書いたのだが、すこし追加してみる。

 海軍の資料によると、鹿児島飛行場周辺に「飛行場機銃陣地」「航空隊機銃陣地」「鴨池機銃陣地」「郡元機銃陣地」があった。「96式13ミリ機銃」「7.7ミリ機銃」「93式13ミリ機銃」などがあったらしい。
4校の周辺にかつて、そうした軍事施設があったのを知って欲しい。

宇宿町
 すこし視野を広くして、郡元から脇田へとくだる。そこに、かつて「脇田高角砲台」があった。設置された武器は、「120ミリ高角砲2門」。また、96式13ミリ機銃もあったらしい。そのほかに、「宇宿照空灯台」と呼ばれる施設もあった。「150ミリ探照灯」とあるから、空を照らすサーチライトがあったようだ。
 同地にある宇宿小学校の生徒さんは、平和学習の一環として調べてみるといいかもしれない。

 また、宇宿に軍需工場のT株式会社があった。佐世保鎮守府の資料に同社の名前があり、製品が記されている。小さな部品を納入していたようである。用途は不明である。
他にも、同地に第22海軍航空廠鹿児島補給工場の横穴壕もあった。同工場で使う資材が保管されていたようだ。

 かつての宇宿町に、軍事施設があったことを知ってほしい。宇宿小学校の生徒さんは、調べてみるといい。

亀ケ原
「亀ケ原照空灯台」と呼ばれる、施設もあった。150ミリ探照灯が1基あった。
亀ケ原は、鹿児島大学病院の周辺になるだろうか。まだ、場所を正確につかめていない。
そうした施設があったのを知ってもらいたい。

唐湊
 同地に「唐湊水平砲台」があった。120ミリ高角砲が2門設置されていたようだ。上陸してくる米兵を攻撃する目的であったようだ。
また、「唐湊照空灯台」に、150ミリ探照灯が1基設置されていた。

 昭和20年6月17日から18日にかけての空襲で、体験者がサーチライトを証言している。彼らが見た灯りのひとつであったかもしれない。

 同地は中郡小学校の生徒さんが通うのだろうか。同校の近くにかつて、軍需工場が集まっていたようであるから、その辺りも調べてみるといいかもしれない。

天保山
 天保山に、「天保山高角砲台」と呼ばれる施設があり、「120ミリ高角砲2門」が設置されていた。『勝目清回顧録』に記述があるから、目を通されるといい。
天保山中学校と八幡小学校の生徒さんは、平和学習の一環で調べるといい。

 また、下荒田町は昭和20年4月8日の空襲を受けている。多数の死傷者が出たようであるが、公式記録を見つけられていないため正確な数字はわからない。
両校の生徒さんは、同日の空襲についても調べるといい。

メディアの報道に接していると、「昭和20年6月17日鹿児島大空襲」ばかり取り上げる。
当時の新聞「鹿児島日報」をめくっていると、昭和20年4月8日の空襲が鹿児島市民に与えた心理的影響は、相当に大きかったようである。
八幡小学校と天保山中学校の生徒さんは、平和学習で4月8日の空襲を調べて欲しい。
posted by 山川かんきつ at 05:54| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする