この句は、「京大俳句」昭和14年5月号で、発表されたらしい。『渡邊白泉の100句を読む 俳句と生涯』に記されている。

渡邊白泉の一〇〇句を読む - 川名 大
白泉は教職員だったと聞いていたから、この句は学校の様子を描いたと考えていた。だが、それは思い違いであった。白泉は終戦後に教職に就いていた。この句を作ったときは、三省堂の社員だったらしい。
■白泉の句を広めた二つの評論
『渡邊白泉の100句を読む 俳句と生涯』によると、この句が注目され出したのは昭和末期から平成の初期にかけてのこと。
朝日文庫の『白泉句集』序文で、神田秀夫氏がこう記したことがきっかけであったそうだ。
当時、軍は、その所属の建物でない会社その他で、会議をやらなければならなくなると、機密の漏洩を恐れ、会議室の周辺に歩哨を立てて、廊下を通行止めにした。この句も、多分、そういうケースを目にし、それに触発されたのだと思うが、戦争は戦場にあるのではない、戦争をさせている元凶は、今、この廊下の奥の会議でやっている、という切り込み方がすごいと思う。
もうひとり、この句を評した著名な評論家がいた。大岡信である。
昭和54年8月11日付朝日新聞「折々のうた」で、大岡は次のように評した。
わが家の薄暗い廊下の奥に、戦争がとつぜん立っていたという。ささやかな日常への凶悪な現実の侵入、その不安をブラック・ユーモア風にとらえ、言いとめた。
「朝日文庫」「朝日新聞」など大きなメディアで取り上げられたことで、この句は一気に認知度をあげたようである。
筆者は偉そうに書いているが、この句を知ったのは2,3年前のことである。ほんの最近のことなり。
『渡邊白泉の100句を読む 俳句と生涯』の編者、川名さんは神田秀夫の評論について次のように記す。
この句の発想の契機へ、神田秀夫が指摘したように、ビルの廊下に歩哨を立て、その奥の会議室での秘密の軍事会議であったかもしれない。(途中省略)
それでは戦争を軍部に限定してしまう。市井の庶民の木造家屋の薄暗い廊下の奥に、突如として戦争が物の怪のように佇っている戦慄的なイメージへと拡げることで、銃後のささやかな日常生活へも否応なく侵入してくる戦争の恐怖が如実に伝わってくる。「戦争」という無季の題によって、戦争の恐怖をわし掴みにした句だ。
川名さんの評論は適切と思う。白泉が詠んだ「戦争が」は、戦時体制に組み込まれていく空気感を、「廊下の奥」は、まだぼんやりした戦時体制の空気感を表現しているのではないか。
庶民が戦時体制にはっきりと組み込まれるのは、昭和15、6年ごろからだと筆者は考えている。
「戦争が廊下の奥に立ってゐた」は、昭和14年の作。同じころに著わされた清沢洌の評論がある。ページを繰ると、ところどころに伏字や削除された文章に気づく。
出版側が自主規制をかけたと考えられる。白泉はこの頃、三省堂に勤務していたそうだから出版物への自主規制も体験したかもしれない。
「戦争が廊下の奥に立ってゐた」は、当時のさまざまな空気感を凝縮させているのではないかと、筆者は思う。
白泉を反戦俳人とし評する向きがあるらしい。著者の川名さんによると、それは間違っているという。
白泉のように時代状況に対して批判的な立場に立つ俳人にとっては、国家権力への批判精神を比喩やイロニイ等の屈折したぎりぎりの表現に託さざるを得ない状況になっていた。
白泉は、この句について解説をしていない。そのため、「答え」は永遠で出ない。
この句が出来た時代状況や白泉の日常などから、類推するより仕方がない。
「戦争が廊下の奥に立ってゐた」をどのように解するか、白泉から読者への問いかけかもしれない。
■参考文献
『渡邊白泉の100句を読む 俳句と生涯』(川名大・飯塚書店・20121年)