2024年05月30日

戦争が廊下の奥に立ってゐた

戦争が廊下の奥に立ってゐた」 渡邊白泉の句である。
 この句は、「京大俳句」昭和14年5月号で、発表されたらしい。『渡邊白泉の100句を読む 俳句と生涯』に記されている。

渡邊白泉の一〇〇句を読む - 川名 大
渡邊白泉の一〇〇句を読む - 川名 大


 白泉は教職員だったと聞いていたから、この句は学校の様子を描いたと考えていた。だが、それは思い違いであった。白泉は終戦後に教職に就いていた。この句を作ったときは、三省堂の社員だったらしい。

■白泉の句を広めた二つの評論
『渡邊白泉の100句を読む 俳句と生涯』によると、この句が注目され出したのは昭和末期から平成の初期にかけてのこと。
朝日文庫の『白泉句集』序文で、神田秀夫氏がこう記したことがきっかけであったそうだ。

 当時、軍は、その所属の建物でない会社その他で、会議をやらなければならなくなると、機密の漏洩を恐れ、会議室の周辺に歩哨を立てて、廊下を通行止めにした。この句も、多分、そういうケースを目にし、それに触発されたのだと思うが、戦争は戦場にあるのではない、戦争をさせている元凶は、今、この廊下の奥の会議でやっている、という切り込み方がすごいと思う。

 もうひとり、この句を評した著名な評論家がいた。大岡信である。
昭和54年8月11日付朝日新聞「折々のうた」で、大岡は次のように評した。

 わが家の薄暗い廊下の奥に、戦争がとつぜん立っていたという。ささやかな日常への凶悪な現実の侵入、その不安をブラック・ユーモア風にとらえ、言いとめた。

 「朝日文庫」「朝日新聞」など大きなメディアで取り上げられたことで、この句は一気に認知度をあげたようである。
筆者は偉そうに書いているが、この句を知ったのは2,3年前のことである。ほんの最近のことなり。

 『渡邊白泉の100句を読む 俳句と生涯』の編者、川名さんは神田秀夫の評論について次のように記す。

 この句の発想の契機へ、神田秀夫が指摘したように、ビルの廊下に歩哨を立て、その奥の会議室での秘密の軍事会議であったかもしれない。(途中省略)
 それでは戦争を軍部に限定してしまう。市井の庶民の木造家屋の薄暗い廊下の奥に、突如として戦争が物の怪のように佇っている戦慄的なイメージへと拡げることで、銃後のささやかな日常生活へも否応なく侵入してくる戦争の恐怖が如実に伝わってくる。「戦争」という無季の題によって、戦争の恐怖をわし掴みにした句だ。

 川名さんの評論は適切と思う。白泉が詠んだ「戦争が」は、戦時体制に組み込まれていく空気感を、「廊下の奥」は、まだぼんやりした戦時体制の空気感を表現しているのではないか。
庶民が戦時体制にはっきりと組み込まれるのは、昭和15、6年ごろからだと筆者は考えている。

「戦争が廊下の奥に立ってゐた」は、昭和14年の作。同じころに著わされた清沢洌の評論がある。ページを繰ると、ところどころに伏字や削除された文章に気づく。
出版側が自主規制をかけたと考えられる。白泉はこの頃、三省堂に勤務していたそうだから出版物への自主規制も体験したかもしれない。

「戦争が廊下の奥に立ってゐた」は、当時のさまざまな空気感を凝縮させているのではないかと、筆者は思う。

 白泉を反戦俳人とし評する向きがあるらしい。著者の川名さんによると、それは間違っているという。

 白泉のように時代状況に対して批判的な立場に立つ俳人にとっては、国家権力への批判精神を比喩やイロニイ等の屈折したぎりぎりの表現に託さざるを得ない状況になっていた。

 白泉は、この句について解説をしていない。そのため、「答え」は永遠で出ない。
この句が出来た時代状況や白泉の日常などから、類推するより仕方がない。
「戦争が廊下の奥に立ってゐた」をどのように解するか、白泉から読者への問いかけかもしれない。

参考文献
『渡邊白泉の100句を読む 俳句と生涯』(川名大・飯塚書店・20121年)
posted by 山川かんきつ at 16:08| Comment(0) | 作家と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年05月25日

紫原台地と鹿児島飛行場周辺 米軍資料から

以前、「紫原台地と鹿児島飛行場周辺 海軍の資料から」を書いた。今回は、米軍資料を使って、鹿児島飛行場周辺をみる。

19450318 kagoshimaAF 1.jpg

『CINCPAC-CINCPOA INFORMATION BULLETIN 81-45 KAGOSHIMA』と題された米軍作成の地図がある。1945年5月15日現在の鹿児島市が描かれた地図である。
地図をよく見ると、飛行場とその周辺に対空火器やサーチライトなど防御施設の場所と数が書き込まれている。

19450515 kagoshima city.jpg


 脇田と天保山の両高角砲台。郡元と鴨池の両機銃陣地。日本海軍の資料と同じ内容である。地図によると、紫原台地にレーダー施設1基が記されている。だが、日本側資料で確認できない。

 また、唐湊照空灯台が米軍作成の地図に描かれている。日本側資料と合致する。
武岡台地にサーチライトがクエスチョンマーク入りで描かれている。戦争体験談に陸軍が同地に聴音機や機銃などを設置していとある。陸軍に関する資料を筆者は持たないため、まだ確認できていない。

 甲突川河畔、旧塩屋町と思われる所に機銃が地図に描かれている。日本海軍の資料に記載がないため、陸軍の武器かもしれない。
地図を北上すること原良町に、サーチライトとレーダー制御のサーチライトが描かれている。日本陸軍の装備と思われる。戦争体験談に記述があるかもしれない。
伊敷兵営や永吉町、下伊敷町に機銃が描かれている。これらもまた、陸軍の武器と考えられる。陸軍の資料を見つけ出すほかない。

 米軍作成の地図は、旧谷山町の和田まで描かれている。「UNIDENTIFIED INDUSTRY TANIYAMA」とある。場所から推定するに、田辺航空工業株式会社である。

tanabe1.jpg

同地図は1945年5月15日に作成されたのであるが、同じ時期に南九州の地形や地質、植生、産業などをまとめた報告書がある。
内容から察するに、南九州上陸を前提にした研究書といった印象を受ける。田辺航空工業株式会社を上空から撮影した写真と同社の説明文が掲載されている。

 工場の位置、建物の配置、棟数、従業員数などが詳しく記されている。同社の文書をまだ目にしていないが、戦争体験談を読むと符合する点が多い。
 日本側の資料と米軍側の資料を見くらべる。米軍の分析力に改めておどろかされる。
偵察写真や捕虜からの情報、公開資料などから分析しているのだろう。
InformationをIntelligenceに変換できる力は、現代でも有効であろう。
アメリカの場合、陸軍と海軍は情報を共有し、作戦に生かしているのがわかる。
旧日本軍の場合、情報の共有がなされなかったのとは大きな違いである。

 米軍作成の地図を眺めながら、日本軍の武器の配置を確認するとともに、米軍の分析力に舌をまいている。

■関連記事
「紫原台地と鹿児島飛行場周辺 海軍の資料から」
 http://burakago.seesaa.net/article/502949181.html
posted by 山川かんきつ at 22:38| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年05月19日

昭和20年3月18日午後の空襲 鹿児島市

 大分県で活動する「豊の国宇佐市塾」が、戦艦大和や鹿児島航空基地への攻撃を記録した映像を公開したらしい。今月14日付南日本新聞と朝日新聞で知った。

19450318 kagoshimaAF 1.jpg
 空襲を受ける前の鹿児島飛行場 国会図書館デジタルコレクションより


 鹿児島県の空襲を調べている者として、鹿児島飛行場への攻撃に注目した。南日本新聞に掲載された同飛行場の写真は貴重である。飛行場の護岸や鴨池川河口、新川などを確認できる。同川両岸の鹿児島航空基地の施設と鹿児島海軍航空隊の建物なども見られる。

 5月17日付毎日新聞にも同じ写真が掲載されている。説明文は次のように記す。

 1945年3月18日午後3時45分ごろ、鹿児島市内の旧海軍鹿児島飛行場周辺の軍施設に米空母艦載機のロケット弾が発射される様子

 攻撃の日付と時刻は、「AIRCRAFT ACTION REORT(艦載機戦闘報告書)」に目を通さなければ知りえぬ情報である。おそらく、豊の国宇佐市塾の方から情報を得たのであろう。

 この日、鹿児島飛行場は午前7時前後に第1波の攻撃に始まり、午前9時台まで断続的に攻撃を受けている。午後は14時45分から16時頃までの2波で、最終は21時10分〜22時10分に最後の攻撃があった。いずれも、米軍の艦載機戦闘報告書に拠っている。

空母BATAAN
 5月14日付南日本新聞も、攻撃を受ける鹿児島飛行場の写真を掲載している。毎日新聞と同じ写真である。南日本新聞は、同飛行場攻撃について次のように記す。

 同日午後4時前に海軍鹿児島飛行場(鹿児島市)に対し行われた攻撃も「バターン」の戦闘機隊が担い、出撃回数は5次に及んだ。

 この記事から受ける印象として、バターンだけが攻撃したと理解しそうである。空母バターンの艦載機戦闘報告書は、こう記している。

 Sixteen Hellcat fighters of VF-47(BATAAN) and VF-45(SAN JACINTO) and six Corsairs of VF-5(FRANKLIN) and one photo Hellcat combined to make a sweep of Kagoshima and Izumi Airfields and facilieies.

 抄訳する。
 空母バターンと空母サンジャシントのヘルキャット16機、空母フランクリンのコルセア6機、撮影任務のヘルキャット1機は共同して鹿児島・出水両飛行場と施設を掃討した。

 3隻の空母から発進した戦闘機隊が、共同で攻撃している。戦闘機隊の発艦と着艦、目標上空到達などの時刻を記す。

@バターン
 発艦14:15 
目標上空到達 記述ナシ 
帰還17:45

Aサンジャシント
 発艦14:15
 目標上空到達15:45(鹿児島飛行場)、16:15(出水飛行場)
 帰還17:50〜55

Bフランクリン
 発艦14:30
 目標上空到達16:00
 帰還17:45

 毎日新聞に「午後3時45分ごろ」と記したのは、サンジャシントの報告書からと思われる。これらの米軍機は対してロケット弾を同じ施設を狙って発射している。

 The Aircraft factory (saw toothed building on the west side of the field)
 機体組立工場(飛行場西側にある鋸歯状屋根の建物)
以前、「鹿児島市真砂本町の不発弾について」と「鹿児島市真砂本町の不発弾」で触れた建物である。

ちなみに、迎撃機について同報告書は次のように記している。
「No enemy A/C encountered.」(敵機との遭遇なし)
 艦載機戦闘報告書を時系列に並べると、日本海軍機が相当数撃墜されている。このことが関係しているかもしれない。

 今回、この記事を書いたのには理由がある。『鹿児島市史2巻』と『鹿児島市戦災復興誌』に昭和20年3月18日の空襲に関する記述について、再考してもらうためである。
 両書は、こう記す。

 昭和20(1945)年3月18日午前5時42分、鹿児島市役所屋上のサイレンが空襲警報を報じた。
市防空課に入った情報第1号は「敵の機動部隊は大隅半島の南方300キロの洋上に出現、南九州空襲の公算大なり」というものだった。
午前7時50分頃、米グラマン・カーチス等の艦載機40機が桜島上空に現れ、郡元町の海軍航空隊を急降下爆撃した。


 以前から疑問を抱いているこの記述、どういった記録を基にしているだろうか。おそらく、『あれから十年』(本田斉著)と『勝目清回顧録』がベースになっていると思われる。両書ともに、終戦から十年以上経って書かれた個人の回想録である。

この日の鹿児島飛行場に対する攻撃は、1回で終わったことになっている。
南日本新聞と毎日新聞の報道で、午後3時45分にも米軍の攻撃があったことがわかる。

「午前7時50分頃」を米軍の艦載機戦闘報告に記された目標上空到達時刻と照らし合わせてみる。「7時30分」「8時10分」に目標上空に到達しているから、これらのことを述べているかもしれない。
また、「艦載機40機」とあるが、艦載機戦闘報告書で積もっていくと「201機」となった。

 これらのことから、昭和20年3月18日に起こった空襲に関する従来の記述は、見直す必要がある。

参考記事
鹿児島市真砂本町の不発弾について
 http://burakago.seesaa.net/article/502692949.html

鹿児島市真砂本町の不発弾
http://burakago.seesaa.net/article/502589768.html

昭和20年3月18日の空襲 鹿児島市
http://burakago.seesaa.net/article/489108677.html

参考文献
 南日本新聞      2024年5月14日付「都城、鹿児島市の飛行場空襲」
 朝日新聞西部本社版  2024年5月14日付「海軍飛行場空襲映像も 鹿児島」
 毎日新聞西部本社版  2024年5月17日付「空襲受ける飛行場の姿」
posted by 山川かんきつ at 20:55| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする