2024年06月29日

戦争体験談の活用

 先日先日、鹿児島県の空襲を研究しているK氏からメールをいただいた。
新聞報道や平和団体などが描く空襲は、戦争体験談が中心になっている。早晩、限界を迎えるだろう、というものだった。
Kさんは、筆者よりも早く研究に着手しておられるから、思うところがあるだろう。

 筆者はかつて、『鹿児島市史第2巻』と『鹿児島市戦災復興誌』にある空襲に関する記事を鵜呑みにしていた。両書が鹿児島市の公式記録と考えてのことである。認知バイアスがかかっていたのだろう。
だが、鹿児島市の空襲体験談を読み進めるうちに、違和感をおぼえ始めた。両書が記す空襲に関する記事は、どこまで事実に基づいているだろうかと…。

その後、米軍や米国戦略爆撃調査団などの資料に目を通すようになって、違和感は増すばかり。鹿児島市の公式記録と米軍の記録に齟齬のあることが分かってきた。
空襲の回数や内容に関する記述など。
公使記録よりも、個人の日記や当時の新聞記事が米軍の記録と合致するケースがある。空襲体験談のなかにも、米軍と日本海軍の記録と合致するケースもある。

 『鹿児島県の空襲戦災の記録 第1集鹿児島市の部』に、「初めての鹿児島市街地空襲」と題する体験談が掲載されている。
作者は当時、松原国民学校教諭をなさっていた方である。

 次が3月18日、鴨池にあった海軍航空隊へ敵空母艦載機による空襲であった。日曜であったが、当時は警戒警報がでたら、皆何の食糧の準備もせずに駈けつけた。夕方まで波状空襲で(以下省略)

 「夕方から波状攻撃で」の記述どおり、鹿児島航空基地は午前と午後に艦載機の攻撃を受けている。これは、アメリカ海軍機動部隊の文書「Aircraft Action Report」(艦載機戦闘報告書)や日本海軍の徴用船の日記と合致する。

 『鹿児島県の空襲戦災の記録 第1集鹿児島市の部』に、昭和20年3月18日に関して注目した体験談がある。作者は当時、鹿児島市郡元町は涙橋近くで雑貨店を営まれていた方である。

 3月18日、朝8時頃、警戒警報がでました。家の防空壕では心配だったので、今の南鹿児島駅付近の防空壕に入ろうと思い、(途中省略)。 最初に入った壕の近くに変電所があり(以下省略)。

 涙橋近くの「変電所」に引っかかり、様々な資料に目を通した。分かるまでにかなりの時間を要した。作者のいう「変電所」は日本海軍の施設だった。近くに「水行社」もあった。
空襲体験談をよくよく考察すると、意外な事実が分かることもある。体験談をどのように扱うか。使い方しだいで、評価が変わってくるのではないか。

 空襲体験談をそのまま報じるのも、ひとつの方法だと思う。体験談を一次資料と比較しつつ考察するのも有効だと思う。「インフォメーション」と「インテリジェンス」である。両者の違いは、次のように言われている。

 インフォメーションは、「生の情報」。ただ伝え聞いた情報。体験者の聞き取りが当てはまる。
 インテリジェンスは、「加工された情報」。信ぴょう性を吟味したうえで解釈を施した情報。特定の意思決定に使える情報かどうか。

 戦争体験談を残す際は、InformationとIntelligenceを両方併記するのが理想的かもしれない。「生の情報」から信ぴょう性を引き出すために、一次資料で比較検討しなければならない。「資料の探し出し」「比較検討」に、大変な手間がかかる。
筆者は今のところ、米軍資料と日本軍資料、当時の新聞などをメインにして空襲を調べている。そこに、戦争体験談を参考にしている。
もっと効率的な方法があれば良いのですが・・・。


■関連記事
「偏る戦災報道」(http://burakago.seesaa.net/aricle/501823407.html)

「鹿児島大空襲に関する報道」(http:/burakago.seesaa.net/article/488960168.html)

「昭和20年3月18日の空襲」(http:/burakago.seesaa.net/article/489108677.html)

参考文献
「平和願い民間犠牲者弔う」2024年6月18日付南日本新聞
『鹿児島県の空襲戦災の記録 第1集鹿児島市の部』(鹿児島県の空襲を記録する会)
posted by 山川かんきつ at 17:26| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月26日

銃後という街

 銃後といふ不思議な町を丘で見た

 渡辺白泉の句である。
によると、初出は「風」第7号(昭和13年4月)。

渡邊白泉の一〇〇句を読む - 川名 大
渡邊白泉の一〇〇句を読む - 川名 大

作者は、この句について次のように解説する。

 眼下の家並みはひっそりと静まり返っているが、家々や人々はみな、尽忠報国の国民精神の下の銃後の護りを固めている不思議な町として目に映る。白泉の時代情況に対する強い違和感と批判精神が込められている。

この句が発表される前年、1937(昭和12)年7月に支那事変勃発。戦線は拡大していく。
国内では「銃後の護り」と称して、「国防婦人会」や「愛国婦人会」、「銃後奉公会」などの団体が結成される。また、防空演習も日常化。「事変」と言うものの、実態は「戦争」であった。国民は、戦時体制に少しずつ吞み込まれていく。

 昭和19年1月から終戦までの地元新聞に目を通す。投書欄や防空美談などの記事を読むと、「まじめな、あまりにまじめな」市民たちの様子がうかがえる。戦争の結末を知る者からすれば、気の毒なほどである。当時の国民は、戦争に負けるとは考えもしなかっただろう。

 白泉の句に、時代を感じさせる句がもうひとつある。

花の家思想転変たはやすく

『渡邊白泉の100句を読む』は、次のように解説する。
 昭和15年から16年にかけては俳壇も大きく暗転した。15年10月、大政翼賛会が結成され、戦争遂行のための国民統制・思想統制が一段と強まった。特高も合法的・非政治的な団体や自由主義にも弾圧対象を拡張した。

 12月には「日本俳句作家協会」が結成され、俳句報国を目的として俳壇が統一された。国家権力による俳人、俳壇への弾圧、掣肘はこれだけで終わらなかった。
以後、俳壇や俳人は時局に同調して戦勝や戦意高揚を目的とする「聖戦俳句」へとなだれ込んでいった。

 著書は解説する。
「花の家」は桜の花にかこまれた家というイメージだけでなく、時と共に変化し、色あせてゆくものとして、「思想転変」と交換させたものだろう。

 哲学者の鶴見俊輔さんは、「転向」をキーワードに昭和史を読み解く。白泉の句も、「転向」を含んでいる。昭和史を読み解く際、「転向」は重要な言葉のひとつのようだ。
白泉の句に目を通しているうちに、澤地久枝さんの言葉を思い出した。『昭和とわたし 澤地久枝のこころ旅』に、こう記している。

昭和とわたし 澤地久枝のこころ旅 (文春新書 1231) - 澤地 久枝
昭和とわたし 澤地久枝のこころ旅 (文春新書 1231) - 澤地 久枝



 私は、これまで俳句というものに対して、あまり関心を持たずに生きてきたけれども、俳句という短詩型の強さというのは素晴らしいと思いますね。日本人は、やっぱりこれを大事にしなきゃいけないと思う。

 白泉の句に目を通していると、澤地先生のいう「短詩型の強さ」を痛感する。ほんの短い文章のなかに、様々な要素が含まれている。しかも写実的だ。昭和史をみるうえで、俳句にも注目する必要がありそうだ。
 
参考文献
『渡邊白泉の100句を読む』(川名大・飯塚書店・2021年)
『昭和とわたし 澤地久枝のこころ旅』(澤地久枝・文藝春秋・2019年)
posted by 山川かんきつ at 05:17| Comment(0) | 作家と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年06月19日

公文書の廃棄

 南日本新聞の社説「資料廃棄奨励 これが県警の本音か」を読んだ。2024年6月18日付である。

 県警は捜査書類の速やかな廃棄を促す内部文書を作成していた。文書は「刑事企画課だより」という名称で公文書にあたる。

 自らにとって都合のいい資料だけがあればいいという捜査機関の本音がうかがえ、失望は大きい。


 同社説を読みながら考えた。鹿児島県は公文書館設置にむけて議論を本格化するらしい。肝心の役所が、資料の廃棄を奨励している。鹿児島県の公文書館は、前途多難なり。
もうひとつ感想をもった。公文書廃棄の体質は、現在でも濃厚に存在している。

 昭和史の大家である保阪正康さんが、「歴史奪う公文書改ざん」で、次のように述べている。2018年4月25日付朝日新聞である。

 戦前が終わり戦後が始動した1945年8月。日本各地で起きたのは、役人や軍人が公文書を大量に焼却する事件でした。戦争責任を隠蔽する組織的行為です。陸軍省や内務省など多くの官庁で、庭から煙が立ち上がりました。

 公文書が焼かれた国には、歴史の空白が生まれました。戦争の政策がいつどう決定され、どう進められたのか。戦後に国民が知ろうにも手がかりとなる記録がないのです。

 筆者は、鹿児島県の空襲について調べている。幸いにも、米軍や米国戦略爆撃調査団の資料を閲覧できるようになった。米国側の視点になってしまうが、空襲のいったんを垣間見れる。
困ったことがある。鹿児島県や各市町村が、当時作成したであろう被災状況を記した文書が見当たらない。警防団や警察が調査したと思われるのだが、なかなか見つからない。
資料を探し出すのに、時間がかかっている状況である。

 鹿児島市史に記された空襲に関する記述は、どのような一次資料に基づいているだろう? 同書の参考資料をみれば、終戦から10年以上経ってから書かれた個人の回想録や建設省編集などの書物になっている。それらの文献に、同時性がない。
同時性をもった日記や業務日誌などを参照したのならば、承知する。そうではない。

とくに、昭和20年5月12日の空襲を伝える記事は、鹿児島日報に記された内容をそのままである。
鹿児島市を襲った米軍機は、沖縄基地から飛来したらしい。
だが米軍資料によると、1945年5月17日に初めて米軍戦闘機が九州を発攻撃したとある。
5月12日の空襲で、鹿児島市を襲った米軍機は空母から発進した小型機だった。
鹿屋にあった第5航空艦隊の記録にも、その旨記されている。

 昭和20年8月11日に発生した、加治木町の空襲は資料が揃う。米軍資料はいうまでもなく、加治木町が作成した「戦災状況報告」が残されている。報告書は、『姶良市誌別巻2資料編 碑文・近代史料・自然資料』に記されている。貴重な資料である。

同書に、もうひとつ貴重な資料が紹介されている。「連合軍に対する公文書類呈示等に関する件」である。
アジア歴史資料センターで、その文書を閲覧できる。原文のまま記す。

内閣閣甲第三七號 昭和二十一年二月八日 内閣書記官長
 聯合軍ニ對スル公文書類呈示等ニ関スル件
 最近各廰職員ニシテ降伏文書ノ條項ニ違反シテ公文書ヲ毀却シ又ハ聯合軍側ヨリ書類ノ提出ヲ命ゼラレタルモ故意ニ其ノ提出ヲ遅延セシメ若ハ提出セルモ書類ガ事實ヲ隠蔽セル等ノ事例アリタルトコロ右ハ事實面白カラザル義ト思料セラルルニ付今後共各廰職員ハ聯合軍側ノ指令ニ對シテハ誠實ニ之ヲ履行シ積極的ニ協力スル様此ノ上共篤ト御示達方然ル可ク御配意相成度


 
内閣書記官長から命令書がでるほど、公文書に関する問題が発生していた。終戦から半年後に…。
GHQの命令は強力であったのは、戦略爆撃調査団の資料に添付された日本側の資料からもうかがえる。感心するほどである。
日本が独立を果たすと、アメリカ軍は撤退。絶対的な支配者がいなくなると、お役人さまたちは公文書を軽く扱い始めたのかもしれない。

 保阪正康さんは、アメリカの公文書管理についてこう述べている。

 80年代に私は、米国の国立公文書館へ行きました。「なぜ米国は戦争について実証的に調査したり、その記録を公開したりするのでしょう。
担当者は「納税者への義務ですから」と答えた。
政府が戦争という政策に税金をどう使い、成果はどうだったのか。国民への報告は当然だ、というのです。


 公文書管理に関して、アメリカから学ぶことは多い気がする。とくに、「納税者への義務」と答えた担当者の言葉は頭に残る。
前述の社説を読み返す。「納税者への義務」といった意識は感じられない。

参考文献
「社説 資料廃棄奨励 これが県警の本音か」2024年6月18日付南日本新聞
「公文書館鹿県議論本格化」2024年6月9日付南日本新聞
「歴史奪う公文書改ざん」2018年4月25日付朝日新聞
『姶良市誌別巻2資料編 碑文・近代史料・自然資料』(姶良市・平成29年)
「聯合軍ニ對スル公文書類呈示等ニ関スル件」(内閣閣甲第三七號)アジア歴史資料センター
posted by 山川かんきつ at 23:32| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする