時には、大正から昭和にかけての歴史展示を催してもらいたいと思いつつ、絵図をながめる。
目をひいた絵図と地図があった。
ひとつは、高木善助作「紀行篇画帖」である。展示された絵図は2枚。
「城山南面屋形前之図」と「城山西面下町之図」。
いずれの絵図も立体的に描かれている。鹿児島市立図書館が2018年に発行した「天保年間鹿児島城下絵図」を参照しつつ眺めると、イメージしやすい。
「城山南面屋形前之図」は、現在の鹿児島市役所前を走る電車通りが堀であった様子が描かれている。鶴丸城前を走る、現在の国道10号線や中央公園、宝山ホールなども描かれている。
「城山西面下町之図」は、現在の山形屋前の通りやいづろ通り、天文館通りが描かれている。また、加治屋町や西千石町、西田町などもある。
江戸期の鹿児島城下をイメージするに、とても参考になる。
善助の図に、「府下東面上町之図」と「鹿児島府下之全図」もある。2階の閲覧室にて見れる。
■大正13年の地図
展示物で目をひいた地図があった。大正13年に作成された「鹿児島市街地図」である。
当時の郡元町は、新川沿いに「錦江高等女学校」とある。同校は後に工業学校になったが、戦時中に軍需工場へと変わる。
大正時代に作成された地図は、このほかにもある。ただし、今回は展示されていない。
「鹿児島市市街便覧図」(大正7年発行)
「最新改正 鹿児島市街地図」(大正7年発行)
「鹿児島市街地図」(大正13年)など。
江戸期の絵図や明治・大正に作成された地図を見くらべるのもおもしろい。
そして、昭和時代に作られた地図である。
「実測番地入鹿児島市街地図」(昭和5年)
「実測番地入鹿児島市街地図(昭和12年)
「訂正増補番地入鹿児島市街図」(昭和16年)などがある。
いずれの地図も、空襲体験談を読む際に欠かせない。例えば、下荒田町を見る。
御船手堀が描かれ、名前のわかる橋が5つ架かっていた。


そのうちのひとつ、御船手橋。『ああ田上 四月八日』の空襲体験談に、同橋が記されている。
体験談を残された方は、鹿児島県立病院から海岸通りに出て、天保山橋を渡って下荒田町に入った。そして、御船手橋をわたって、田上町に帰った旨を記している。
田上町の空襲を調べている方は、同地図を見ながら体験談を読まれるといいかもしれない。
体験者の足取りがわかる。
前述の「訂正増補番地入鹿児島市街図」(昭和16年)は、時代を感じさせる。
伊敷町の「四十五連隊」や郡元町の「鹿児島航空基地」は、名称が記されていない。
防諜が叫ばれた時代であったため、記されなかったと思われる。
鹿児島県立図書館で開催中の古地図展は、8月30日まで展示されるとのこと。
関心のある方は、ぜひご覧あれ。
■参考文献
『あゝ四月八日 田上空襲の記録』(田上の空襲を記録する会・1984年)