2024年07月29日

鹿児島県立図書館の古地図展

 せんだって、鹿児島県立図書館に行くと、「第一回貴重資料紹介展 かごしま古地図・絵図散歩」と題する展示をやっていた。あい変らず、江戸時代を中心とした展示である。
時には、大正から昭和にかけての歴史展示を催してもらいたいと思いつつ、絵図をながめる。

 目をひいた絵図と地図があった。
ひとつは、高木善助作「紀行篇画帖」である。展示された絵図は2枚。
「城山南面屋形前之図」と「城山西面下町之図」。

 いずれの絵図も立体的に描かれている。鹿児島市立図書館が2018年に発行した「天保年間鹿児島城下絵図」を参照しつつ眺めると、イメージしやすい。

 「城山南面屋形前之図」は、現在の鹿児島市役所前を走る電車通りが堀であった様子が描かれている。鶴丸城前を走る、現在の国道10号線や中央公園、宝山ホールなども描かれている。

 「城山西面下町之図」は、現在の山形屋前の通りやいづろ通り、天文館通りが描かれている。また、加治屋町や西千石町、西田町などもある。
江戸期の鹿児島城下をイメージするに、とても参考になる。

 善助の図に、「府下東面上町之図」と「鹿児島府下之全図」もある。2階の閲覧室にて見れる。

大正13年の地図
 展示物で目をひいた地図があった。大正13年に作成された「鹿児島市街地図」である。
当時の郡元町は、新川沿いに「錦江高等女学校」とある。同校は後に工業学校になったが、戦時中に軍需工場へと変わる。

 大正時代に作成された地図は、このほかにもある。ただし、今回は展示されていない。
「鹿児島市市街便覧図」(大正7年発行)
「最新改正 鹿児島市街地図」(大正7年発行)
「鹿児島市街地図」(大正13年)など。

 江戸期の絵図や明治・大正に作成された地図を見くらべるのもおもしろい。
そして、昭和時代に作られた地図である。
「実測番地入鹿児島市街地図」(昭和5年)
「実測番地入鹿児島市街地図(昭和12年)
「訂正増補番地入鹿児島市街図」(昭和16年)などがある。

 いずれの地図も、空襲体験談を読む際に欠かせない。例えば、下荒田町を見る。
御船手堀が描かれ、名前のわかる橋が5つ架かっていた。

hatimanbasi2.jpg

hatimanbasi1.jpg

そのうちのひとつ、御船手橋。『ああ田上 四月八日』の空襲体験談に、同橋が記されている。

 体験談を残された方は、鹿児島県立病院から海岸通りに出て、天保山橋を渡って下荒田町に入った。そして、御船手橋をわたって、田上町に帰った旨を記している。
田上町の空襲を調べている方は、同地図を見ながら体験談を読まれるといいかもしれない。
体験者の足取りがわかる。

 前述の「訂正増補番地入鹿児島市街図」(昭和16年)は、時代を感じさせる。
伊敷町の「四十五連隊」や郡元町の「鹿児島航空基地」は、名称が記されていない。
防諜が叫ばれた時代であったため、記されなかったと思われる。

 鹿児島県立図書館で開催中の古地図展は、8月30日まで展示されるとのこと。
関心のある方は、ぜひご覧あれ。

参考文献
 『あゝ四月八日 田上空襲の記録』(田上の空襲を記録する会・1984年)
posted by 山川かんきつ at 22:57| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月27日

鹿児島市にB29が初めて姿を見せた日

 鹿児島市に初めて敵機が飛んできたのは、昭和20年(1945)1月1日である。勝目清回顧録によると(以下省略)

 『鹿児島市史第2巻』と『鹿児島市戦災復興誌』は記す。断定しているから、当時しるされた記録に拠っているのだろと考えていたが、そうではないらしい。
『勝目清回顧録』と『あれから十年』を基にした記述のようだ。

 『勝目清回顧録』(勝目清・昭和38年刊)
 『あれから十年』(本田斉・1955年刊)

  いずれも、戦後10年以上たって刊行された書物である。勝目さんは戦時中、鹿児島市助役。本田さんは、鹿児島市防空課長。お二方ともに、鹿児島市の要職にあった人物ゆえ両書が採用されたと思われる。

『勝目清回顧録』は、オーラルヒストリーといえる。勝目さんから見た、鹿児島市政をうかがえる。貴重な資料といえる。
鹿児島市にB29が初めて飛来した日は、昭和20年1月1日とする記述はどうだろうか。
米軍資料とつき合わせてみる。

米軍資料から
 1945年5月15日作成の米軍資料をみる。
この文書に、米軍が設定した南九州の地勢や植生、飛行場などの情報が記されている。設定域は、鹿児島県と宮崎県の一部になる。
同文書に鹿児島航空基地を捉えた写真が掲載されている。
文書はこう記す。

19450318 kagoshimaAF 1.jpg



 KAGOSHIMA AIRFIELD & AUXILIARY SEAPLANE SYATION
Sortie 444BG / 4MR50 / XXBC, 26 Dec 1944
Approx, Scale in Feat


 直訳すると、鹿児島飛行場と補助的な水上基地。
 第20爆撃機集団第444軍団が、1944年12月26日に撮影。
 この日、鹿児島飛行場の撮影だけでなかった。鹿児島郡谷山町にあった、田辺航空工業鰍燻B影している。写真とともに記された文章を記してみる。

tanabe1.jpg

 UnIdentified Plant, TANIYAMA
Sortie 444BG / 4MR50 /XXBC, 26 Dec 1944

 直訳すると、谷山の未確認工場。

 この日、笠之原飛行場(鹿屋市)や鹿屋飛行場(鹿屋市)、郡元飛行場(宮崎県都城市)なども撮影している。
これらの写真から考えるに、「昭和20年1月1日に、B29が初めて鹿児島市に姿を見せた」とする記述は、再考する必要がありそうだ。

■関連記事
 「1944年米軍機飛来」
 http://burakago.seesaa.net/article/499012410.html


参考文献
『勝目清回顧録』(勝目清・南日本新聞社・昭和38年刊)
『あれから十年』(本田斉・1955年刊)
posted by 山川かんきつ at 08:02| Comment(1) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年07月21日

日記がひらく歴史のトビラ

 NHKスペシャル「新ドキュメント太平洋戦争」は、作家や市井の人びとが書いた日記をもとに番組を作っている。前線の一兵士。銃後にあっては、主婦や商店主などの日記である。個人の日記が残される。非常に稀なケースであろう。

REKIHAKU 特集・日記がひらく歴史のトビラ - 国立歴史民俗博物館, 三上喜孝, 内田順子
REKIHAKU 特集・日記がひらく歴史のトビラ - 国立歴史民俗博物館, 三上喜孝, 内田順子


『REKIHAKU 特集・日記がひらく歴史のトビラ - 国立歴史民俗博物館, 三上喜孝, 内田順子』は、おもしろかった。
個人の日記が、歴史の研究対象になる場合があるらしい。
同書の前書きによい内容の文章が書かれている。文中に「兵士」とあるが、「市民」と置き換えてもいいかと思う。

 戦争はひとくくりの史実として語られたりすることが多い。だが戦争の渦中にいた兵士たちは、当然だが、置かれた環境の中で、一人ひとりがその日その日を生きていた。食べ物を手にできた時もあれば、空腹に苦しんだ時もある。体調のいい日もあれば、悪い時もある。予想もしない状況に打ちのめされたり、ささやかなことに喜びを感じたりすることは、コロナ禍を生きている私たちも同じではないだろうか。

 空襲体験談に目を通していると、市民たちなりの日常があったことが分かる。空襲によって、生活が一変した人もいる。食べ物に関する体験談もあった。とくに、当時女学生や中学生だった人たちの体験談に、空腹を訴える記述が目立つ。
アニメ『この世界の片隅に』は、市井の人びとの日常をうまく表現していた。

 『REKIHAKU 日記がひらく歴史のトビラ』は、続ける。

 一方最近では、日記や手紙など「一人称」の史料を「エゴ・ドキュメント」と呼び、個人の語りに注目する研究も行われている。公式の歴史書では語られない「生の声」があふれ、きわめて魅力的な史料である。その一方で、主観性の強い日記からどのようにその時代の歴史を紡いでいくかという作業には、困難もともなう。

 個人の日記から「生の声」を聞ける。永井荷風の『断腸亭日乗』や清沢洌の『暗黒日記』などは、好例だと思う。
『断腸亭日乗』の昭和16年6月15日付は、荷風の日記を書く際の心構えが記されている。

摘録 断腸亭日乗 下 (岩波文庫 緑 42-1) - 永井 荷風, 光一, 磯田
摘録 断腸亭日乗 下 (岩波文庫 緑 42-1) - 永井 荷風, 光一, 磯田

 今日以後余の思ふところは寸毫(すんごう)も憚り恐るる事なくこれを筆にして後世史家の資料に供すべし

 荷風先生は日記を読まれることと、歴史家の資料として利用してもらうことを願って書いたらしい。これ以後の日記から、先生の冷徹で当局に対して容赦ない記述が展開される。

 荷風先生は同日付の日記で、日中戦争を次のように分析する。

 日支今回の戦争は日本軍の張作霖暗殺及び満州侵略に始まる。日本軍は暴支膺懲(ぼうしようちょう)と称して支那の領土を侵略し始めしが、長期戦争に窮し果て俄に名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用ひ出したり。

 荷風先生は、現代人と変わらぬ感覚で当時を見ていたようだ。当時の外交評論家清沢洌の日記と論考なども同様である。両者に共通する点がある。ふたりとも海外で生活した経験をもっていること。とくに清沢は14年間、アメリカで暮らした経験をもつ。
両者は、当時の日本と日本人を相対化して見ていたかもしれない。

 15年戦争時の歴史は、外交史や軍事史、政治史、経済史などは研究がかなり進んでいる。だが、「庶民」のこととなるとさっぱり分かっていない。
個人の日記や手紙などが、歴史研究の対象となることで少しずつ分かってくるかもしれない。

参考文献
『REKIHAKU 日記がひらく歴史のトビラ』(国立歴史民俗博物館・2021年)
『断腸亭日乗(下)』(永井荷風・岩波文庫・2014年)
posted by 山川かんきつ at 21:15| Comment(0) | 作家と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする