鹿児島市の観光スポットのひとつに、城山公園がある。かつて、そこに正午の時刻を知らせる大砲があったそうだ。
西郷竹彦さんの随筆「城山のドン おさない日の歌」で、大砲について面白い話を著している。
西郷さんは、1920(大正9)年生まれ。
この随筆は、大正から昭和初め頃の鹿児島市の様子を描いているようだ。
城山にあった午砲について、西郷さんは記す。
そのころ、といっても、わたしの小さいころのことですが、城山のてっぺんに、一門の大砲(おおづつ)がすえてありました。
いつの時代に造られたものかは知りませんが、古めかしい青銅の、先ごめの大砲でした。それこそ雨の日も、風の日も、正午になると、その砲台から、ドーンと空砲をうちならして刻(とき)を知らせました。
城山のドンがなると、それにこたえるように、鴨池の浜の紡績工場の汽笛が、ピーとなりわたるのでした。
随筆は、ドンが鳴ったときの子どもたちの様子を記す。
そうなると、もう、あそびどころではありません。
ドンがなった、ピーがなった、飯(まま)たもれ・・・
と歌いながら、わが家の台所へかけてかえっていくのです。
随筆に記された「鴨池の浜の紡績工場」は、現在の真砂本町にあった。
大正6年に、鹿児島紡織鰍フ工場として設立。大正13年に大日本紡績鰍ニ合併し、同鹿児島工場となった。
『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 鹿児島』に、同工場の写真と大正10年に撮影された鹿児島市全景写真が掲載されている。写真を見ながら、この随筆を読むとイメージしやすいかもしれない。
西郷さんの随筆は、紡績工場についてこう記す。
わたしが、ものごころつくようになって知った紡績は、もう、昔のように、若い娘たちのあこがれの職場ではありませんでした。まずしい農家の娘たちが、家のくらしをたすけるために、まるで身売りでもするようにして紡績へやってきました。
白いエプロンをかけ、赤いモスリンの帯だけがはなやかな紡績の娘たちが、おべんとうのつつみを胸にかかえて、工場へ通う姿をよく見かけたものでした。
胸をわずらって、はかなくこの世をさっていった娘たちの話を耳にしているわたしは、子どもごころにも、赤いモスリンの帯をしめた娘さんたちの姿が、あわれに、それでいながら美しいものに見えたものでした。
工場の近くに、サナトリウムの病院「海浜院」があった。現代のように、保険証を出せば医療を受けられるという時代でなかっただろう。庶民にとって、高嶺の花だったかもしれない。
西郷さんの随筆はつづける。
城山の午砲(ドン)にしても、鴨池の紡績の汽笛にしても、それは、新しい文化、新しい時代のおとずれをつげるものであったのです。
大空になりひびく午砲と汽笛の音が、聞こえるかぎりの町々の子どもたちは、「ドンがなった、ピーがなった」と歌いながら大きくなったのです。
しかし、いまはどんな山の中の一軒家でも、ラジオの時報が正確に正午を知らせてくれる時代です。城山のドンももう聞かれなくなったことでしょう。
随筆「城山のドン おさない日の歌」は、『少年少女文学風土記Cふるさとを訪ねて鹿児島』に収められている。昭和34(1959)年刊行されている。城山の午砲が、いつまで使われていたか。それは分からない。
時刻を告げる役目は、今やスマートフォンになろうか。これもまた、新しい文化、新しい時代のおとずれを告げるものだろう。
■関連記事
「城山の午砲(どん)」
http://burakago.seesaa.net/article/407860418.html
■参考文献
「城山のドン おさない日の歌」(西郷竹彦・『少年少女文学風土記Cふるさとを訪ねて鹿児島』・泰光堂・昭和34年)
『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 鹿児島』(芳即正遍・国書刊行会・昭和55年)
2024年08月29日
2024年08月23日
戦争体験の継承 井上寿一さんの提言
戦争体験談をどのように扱うか。悩ましい問題である。
今夏の新聞記事に目を通すと、「戦争体験の継承」についてさまざまな専門家が、意見を述べていた。保阪正康さんの論考をはじめ、思わず考えさせる記事が多かった。
なかでも、井上寿一さんの記事に注目した。
毎日新聞紙上に、「井上寿一の近代史の扉」と題する連載がある。8月17日付「被害者視点だけで不戦守れず 戦争体験の継承」は、示唆に富んでいた。
先生は戦争体験の継承について、3つの問題点を挙げている。
ひとつ目。なぜ、今も生存している人の証言にこだわるのか。
生存しているか否かによって証言の重さに違いはない。既に膨大な戦争体験の記録が残されている。NHKの戦争証言アーカイブスもある。たとえ遠くない将来に生存者の証言が得られなくなっても、これらの証言を読んだり視聴したりすればよいのではないか。
2023年8月16日付毎日新聞に、「平和学習を担当する教員の約7割が、困難を感じると回答」の記事があった。回答項目に、「自分自身が戦争体験者じゃないため、子供に聞かれて答えるのが難しい」の記事を読みつつ疑問をもった。
「なぜ、生存している人の証言にこだわるだろうか。戦争体験集やアーカイブスを利用すればよいのではないか」。井上先生と同じ感想をもったのである。
井上先生は、こう続ける。
史料実証主義の歴史研究者にとって、証言記録は2次的な史料である。当時の日記などの一次史料には及ばない。事後的な回想には記憶の改変が紛れ込むリスクがある。
鹿児島市の空襲体験談に目を通していると、米軍資料と合致する話もあれば、そうでないものもある。記憶の混同や戦後の価値観で語られる体験談もある。そうした際は、泣く泣くふるいにかけるか、修正しつつ体験談を読み進めている。
井上先生は続ける。
求めるべきは戦争の複雑な多様性を知ることのできる証言である。継承すべき記憶は、証言にとどまらず、広範な史料のなかにも存在している。記憶が持つ情報伝達量は、時間の経過とともに低減する。低減を食い止めむしろ情報量を拡大するには、私たち一人一人が戦争の記憶の能動的な継承者にならなければならない。
新聞や報道番組などに接していて、十五年戦争の時代に対する関心が、他の時代史にくらべて低いように感じる。戦争に負けたからなのか、学校の授業で習わないからなのか。井上先生が述べるように、自ら関心を持ち、調べるよりしかないようだ。
哲学者の鶴見俊輔さんは、『戦時期日本の精神史1931〜1945年』で、こう述べている。
1931年から45年の戦争時代を日本の近代史にとってあまり大切でない逸脱の時期と見るか、近代日本を理解する上で大切な時期と見るかは、現代日本論の一つの争点となる。
鹿児島の歴史観を冷めた目で見ていると、島津氏と維新の元勲が中心である。関ケ原であったり、幕末・明治維新であったり。鶴見先生の言われる「あまり大切でない逸脱の時期」と、見なされているかもしれない。
来年は終戦から80年目。各報道機関は、いつにもまして十五年戦争時の事件を扱うだろう。若い人たちが、この時代に関心を寄せる糸口になればと思う。
■参考文献
「井上寿一の近代史の扉」(2024年8月17日付毎日新聞)
『戦時期日本の精神史1931〜45年』(鶴見俊輔・岩波現代文庫・2015年)
今夏の新聞記事に目を通すと、「戦争体験の継承」についてさまざまな専門家が、意見を述べていた。保阪正康さんの論考をはじめ、思わず考えさせる記事が多かった。
なかでも、井上寿一さんの記事に注目した。
毎日新聞紙上に、「井上寿一の近代史の扉」と題する連載がある。8月17日付「被害者視点だけで不戦守れず 戦争体験の継承」は、示唆に富んでいた。
先生は戦争体験の継承について、3つの問題点を挙げている。
ひとつ目。なぜ、今も生存している人の証言にこだわるのか。
生存しているか否かによって証言の重さに違いはない。既に膨大な戦争体験の記録が残されている。NHKの戦争証言アーカイブスもある。たとえ遠くない将来に生存者の証言が得られなくなっても、これらの証言を読んだり視聴したりすればよいのではないか。
2023年8月16日付毎日新聞に、「平和学習を担当する教員の約7割が、困難を感じると回答」の記事があった。回答項目に、「自分自身が戦争体験者じゃないため、子供に聞かれて答えるのが難しい」の記事を読みつつ疑問をもった。
「なぜ、生存している人の証言にこだわるだろうか。戦争体験集やアーカイブスを利用すればよいのではないか」。井上先生と同じ感想をもったのである。
井上先生は、こう続ける。
史料実証主義の歴史研究者にとって、証言記録は2次的な史料である。当時の日記などの一次史料には及ばない。事後的な回想には記憶の改変が紛れ込むリスクがある。
鹿児島市の空襲体験談に目を通していると、米軍資料と合致する話もあれば、そうでないものもある。記憶の混同や戦後の価値観で語られる体験談もある。そうした際は、泣く泣くふるいにかけるか、修正しつつ体験談を読み進めている。
井上先生は続ける。
求めるべきは戦争の複雑な多様性を知ることのできる証言である。継承すべき記憶は、証言にとどまらず、広範な史料のなかにも存在している。記憶が持つ情報伝達量は、時間の経過とともに低減する。低減を食い止めむしろ情報量を拡大するには、私たち一人一人が戦争の記憶の能動的な継承者にならなければならない。
新聞や報道番組などに接していて、十五年戦争の時代に対する関心が、他の時代史にくらべて低いように感じる。戦争に負けたからなのか、学校の授業で習わないからなのか。井上先生が述べるように、自ら関心を持ち、調べるよりしかないようだ。
哲学者の鶴見俊輔さんは、『戦時期日本の精神史1931〜1945年』で、こう述べている。
1931年から45年の戦争時代を日本の近代史にとってあまり大切でない逸脱の時期と見るか、近代日本を理解する上で大切な時期と見るかは、現代日本論の一つの争点となる。
鹿児島の歴史観を冷めた目で見ていると、島津氏と維新の元勲が中心である。関ケ原であったり、幕末・明治維新であったり。鶴見先生の言われる「あまり大切でない逸脱の時期」と、見なされているかもしれない。
来年は終戦から80年目。各報道機関は、いつにもまして十五年戦争時の事件を扱うだろう。若い人たちが、この時代に関心を寄せる糸口になればと思う。
■参考文献
「井上寿一の近代史の扉」(2024年8月17日付毎日新聞)
『戦時期日本の精神史1931〜45年』(鶴見俊輔・岩波現代文庫・2015年)
2024年08月21日
保阪正康さんの論考
作家保坂正康さんの論考は、読むたびに考えさせられる。先生は近現代史の大家。
複雑怪奇な時代史を、縦横無尽に駆け回っている印象を受ける。
先日読んだ朝日新聞に、同先生の論考があった。“「殺し合うのは嫌だ」という重し取れる怖さ”(2024年8月15日付)
先生はこれまで4千人近くの元兵士から証言を聞いてきたらしい。
私が会った戦場体験者に共通したのは、思想が違っていたとしても、「二度とあんな経験は嫌だ」という思いを抱いていたことです。彼らが多くを語らなくても、戦争だけは絶対にだめだという暗黙のルールが作られてきたように思う。その存在が「重し」となってきたのです。
筆者も祖父母をはじめとして、戦争体験をもつ人たちに話を聞いてきた。ほとんどのッ人が、「今が一番よか。戦争はするものじゃなか」と、話していた。
「重し」となってきた戦争体験者が、いなくなる。新聞投稿欄に目を通していると、それはひしと感じる。
「わたしはこのように聞きました」。戦争体験が、如是我聞の段階に入っているようだ。
戦争体験を持たぬ者が伝承しようとする際、どのような行動をとれば良いのか。
保阪先生は、次のように述べる。
戦場体験者の記録が十分に残っているわけではありません。当事者が不在になる時代に、次の世代は、残された記録や証言を読み抜き、戦争の実相に迫ってほしいと思います。
鹿児島市の空襲ひとつとっても、当時に作成されたであろう文書が見つからない。そのため、空襲被害の実態がまるでわからない。さいわいにも、米軍の資料があるため攻撃した側の行動をつかむことができる。そこに、戦争体験談と合わせるという方法を筆者はとっている。
戦争体験談は膨大な数になる。平和団体が編集した冊子をはじめ、新聞報道など。それらの体験談を、スクリーニングにかけながらの作業になる。
体験談に目を通していると、米軍資料の内容と合致するものがある。一方で、記憶の混同や戦後に得た知識ではないだろうかと、思わせる内容もある。
その辺りに注意しながら読み進めるため、時間がかかる。
戦争体験を次の世代にどのように伝えるか。今夏の新聞記事は、伝承について昭和史研究の第一人者が提言を述べている。やはり鋭い指摘をなさっている。
次回は、その研究者の論考にふれる。
■参考文献
「殺し合うのは嫌だ」という重し取れる怖さ」(2024年8月15日付朝日新聞)
複雑怪奇な時代史を、縦横無尽に駆け回っている印象を受ける。
先日読んだ朝日新聞に、同先生の論考があった。“「殺し合うのは嫌だ」という重し取れる怖さ”(2024年8月15日付)
先生はこれまで4千人近くの元兵士から証言を聞いてきたらしい。
私が会った戦場体験者に共通したのは、思想が違っていたとしても、「二度とあんな経験は嫌だ」という思いを抱いていたことです。彼らが多くを語らなくても、戦争だけは絶対にだめだという暗黙のルールが作られてきたように思う。その存在が「重し」となってきたのです。
筆者も祖父母をはじめとして、戦争体験をもつ人たちに話を聞いてきた。ほとんどのッ人が、「今が一番よか。戦争はするものじゃなか」と、話していた。
「重し」となってきた戦争体験者が、いなくなる。新聞投稿欄に目を通していると、それはひしと感じる。
「わたしはこのように聞きました」。戦争体験が、如是我聞の段階に入っているようだ。
戦争体験を持たぬ者が伝承しようとする際、どのような行動をとれば良いのか。
保阪先生は、次のように述べる。
戦場体験者の記録が十分に残っているわけではありません。当事者が不在になる時代に、次の世代は、残された記録や証言を読み抜き、戦争の実相に迫ってほしいと思います。
鹿児島市の空襲ひとつとっても、当時に作成されたであろう文書が見つからない。そのため、空襲被害の実態がまるでわからない。さいわいにも、米軍の資料があるため攻撃した側の行動をつかむことができる。そこに、戦争体験談と合わせるという方法を筆者はとっている。
戦争体験談は膨大な数になる。平和団体が編集した冊子をはじめ、新聞報道など。それらの体験談を、スクリーニングにかけながらの作業になる。
体験談に目を通していると、米軍資料の内容と合致するものがある。一方で、記憶の混同や戦後に得た知識ではないだろうかと、思わせる内容もある。
その辺りに注意しながら読み進めるため、時間がかかる。
戦争体験を次の世代にどのように伝えるか。今夏の新聞記事は、伝承について昭和史研究の第一人者が提言を述べている。やはり鋭い指摘をなさっている。
次回は、その研究者の論考にふれる。
■参考文献
「殺し合うのは嫌だ」という重し取れる怖さ」(2024年8月15日付朝日新聞)