2024年09月29日

実証的手法

 今月13日付朝日新聞の「近現代史、実証的手法で開拓」に、目がとまる。

 歴史学者の伊藤隆氏に関する記事である。筆者は存じ上げないのだが、近現代史研究に実証的手法を開拓した先生だったそうだ。
国語辞典で、「実証的」を引いてみる。「確かな証拠に基づいて研究を進める様子」とある。記事は、先生の研究方法をこう記す。

 一次史料(日記、書簡、書類など)の発掘と当事者への聞き取り調査を徹底し、同時代の全体状況を踏まえて読み込むことで、(途中省略)「当時そうであった」状況を知ることを可能にした。

 記事は一次史料の重要性について、こうも述べる。

 人は、どうしても過去の自分を美化しがちである。(途中省略)
結果を知らないうちに書いた日記、手紙、業務日誌や書類、当時刊行された新聞、雑誌、書籍、当時の画像、録音は歴史研究では必須の史料である。

 伊藤先生は史料を発掘しながら、聞き取りも徹底されたそうだ。
この手法は、澤地久枝氏や半藤一利氏、保阪正康さんなど昭和史研究の第一人者と同じである。澤地久枝著『記録ミッドウェー海戦』は、一次史料の塊である。


記録 ミッドウェー海戦 (ちくま学芸文庫 サ-52-1) - 澤地 久枝
記録 ミッドウェー海戦 (ちくま学芸文庫 サ-52-1) - 澤地 久枝

 NHKスペシャル「新ドキュメント太平洋戦争」も、一次史料に徹した番組だ。個人の日記や手記などをベースに構成されている。市井の人々の暮らしぶりや思いが、伝わってくる。良い番組と思う。

 前述した一次史料について、鹿児島の昭和史を考えてみる。
「鹿児島女子興業学校学務日誌」が発見された記事があった。その日誌は、明らかに一次史料である。その日誌は3年前に発見されたのだが、南日本新聞が今年に報じた記事によると、研究はいっこうに進んでいないらしい。
鹿児島市は、昭和史に興味がないらしい。これが島津氏や明治維新で活躍した人物であれば、即対応するだろうに。

 伊藤先生は、「当事者への聞き取り調査を徹底」されたと記事にある。鹿児島の空襲体験に思いを馳せる。かなり困難な時代になった。このことは、以前から指摘されていたのだが、今や現実となった。

 伊藤先生は、「同時代の全体状況を踏まえて」一次史料を読み込んだそうだ。戦争体験談を読むとき、伊藤先生の手法が有効だと思う。だが、かなり面倒な作業になる。

朝日新聞の「近現代史、実証的手法で開拓」を読みながら考えた。

参考文献
「近現代史、実証的手法で開拓」2024年9月13日付朝日新聞
『記録ミッドウェー海戦』澤地久枝・ちくま学芸文庫・2023年)
posted by 山川かんきつ at 08:33| Comment(0) | 作家と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年09月19日

昭和20年8月15日の神話

 昭和20年8月15日は終戦記念日。疑う余地がないほどの常識である。
昭和史に関する書物に目を通していると、違和感をおぼえ始めた。
太平洋戦争は、いつ終わったのだろうか?

8月15日 昭和天皇の玉音放送がラジオから流れる。
8月19日 降伏条件受取の使者を乗せた緑十字機が、木更津飛行場を出発。沖縄県の伊江島で米軍機に乗り換え、夕方にマニラに到着。
8月20日 連合軍最高指揮官要求第二号を交付。マニラを出発し伊江島に到着。
8月21日 東京に到着
9月2日  ミズーリ艦上で降伏文書調印式

 京都大学名誉教授・佐藤卓己先生の論考が参考になった。2024年7月27日付朝日新聞である。先生は述べる。

 1945年8月15日に終わった戦争は存在しないからです。
『終戦』は相手国のある外交事項です。降伏文書に調印した9月2日が国際法上の終戦日であり、翌3日をロシアも中国も対日戦勝日としています。交戦国ではなく、あくまでも『臣民』に向けた『玉音放送』があった日を節目としていること自体、極めて内向きの論理に基づいています。




 昭和日本史〈8〉終戦の秘録 (1978年)
『昭和日本史〈8〉終戦の秘録 (1978年)』に、元外交官の加瀬俊一さんが著した「ミズリイ艦上の降伏文書調印」と題する文書が掲載されている。同氏は、外務大臣重光葵とともに調印式に立ち会っている。式典にむかう心情をつづっている。

 いまでこそ実感は湧かぬが、われわれ一行は、あるいは生きて帰れまい、という気持ちだったし、見送る人々も同じ思いだった。なにしろ、八月十五日の終戦決定から、まだ日が浅く、意気盛んな少壮軍人のなかには、なお抗戦を叫ぶ者もあったから、一行が途中で襲撃を受けることも十分にあり得ると考えられた。

 8月15日は日本政府が終戦を決定した日であったと、外交官は記す。終戦を決め、日本臣民に広く知らしめたのが8月15日だったと言ってよいかもしれない。佐藤先生が述べるように、「内向き論理」に基づいているようだ。
 先生は、内向きの論理がもたらす弊害について述べる。

 8・15終戦記念日は、周辺国との歴史的対話を困難にしてきました。いくら私たちが平和憲法にコミットする姿勢を示しても、その前提となる内向きの『あしき戦前』と『良き戦後』の断絶史観は外国と共有されていない。他者に開かれていない空間で、いくら自己反省を繰り返しても、対話なきゲームです。

 歴史戦や情報戦という不穏な言葉を使うのは適切ではないでしょうが、私たち自身が内向きな『記憶の55年体制』に閉じこもっている限り、こうした他国の歴史利用に対峙できません

 新聞紙上で、戦闘のつづく地域の記事に目を通していると「プロパガンダ」や「情報戦」といった言葉が目につく。しっかり反論するために、しっかりしたデータや記録を示すほかない。第二次大戦中の日本側の公的記録は、数が少ない。終戦前後に文書を焼却したといわれる。
当時の記録が少ないことが、情報戦にしっかり対応できていない要因のひとつかもしれない。また、歴史修正主義に対しても同様である。

 先の戦争が終わった日は、いつだろうか? 
筆者の場合、長く刷り込まれた影響だろう。終戦日は、昭和20年8月15日の意識が強い。9月2日の降伏調印式が頭にあっても。
先の戦争が終わった日はいつか? 考え直して良い時機かもしれない。


参考文献
「戦争認識 抜け落ちたもの」(2024年7月27日付朝日新聞・耕論)
『昭和日本史8 終戦の秘録』(暁教育図書・昭和51年)
posted by 山川かんきつ at 23:32| Comment(0) | 逆縁の時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年09月15日

呉鎮ふたたび

 今年7月23日付毎日新聞の記事に目がとまった。
元「軍都」呉に防衛拠点計画 閉鎖の日鉄跡地 経済界「大賛成」

 リード文は記す。

 海上自衛隊の基地がある広島県呉市で、防衛省が新たに大規模な防衛拠点の整備を計画している。地元では、地域経済の低迷を背景に歓迎ムードが高まる一方で、自衛隊の活動拠点の拡大に懸念の声もある。戦艦大和が建造されるなど、戦前は「東洋一の軍港」と呼ばれた呉市は、戦後に重工業都市へと転じて発展を遂げた。終戦から80年を前に、かつての軍都は再び転換点を迎えている。

 日本製鉄瀬戸内製鉄所跡地に、防衛省が大規模な防衛拠点の整備を計画しているらしい。
防衛省地方協力局の総務課長が、今年3月11日に呉市議会で次のような説明をおこなった。

 呉地区は米軍佐世保基地や岩国基地に近く、太平洋、日本海、南西方面へのアクセスが容易な非常に重要な場所にある。この地区に多機能な複合防衛拠点を整備したい。

 聞きなれぬ言葉、「複合防衛拠点」とはなんぞや? 記事は次のように説明する。

 複合防衛拠点とは、装備品の維持整備・製造拠点、防災拠点や部隊の活動基盤、岸壁を利用した港湾機能―の三つの機能を一体的に備えているという。

 呉地区に敷地はいうまでもなく、港湾施設や製造業社などすべてが揃っているらしい。
地元経済界の会頭の談話が掲載されている。

 (呉市にとって)光明どころじゃない。大賛成しなければいけない案だ。

 呉市の人口は、ここ15年間で約4万人減少。呉鎮守府があった1943年に、同市の人口は40万人を突破したそうだ。海上自衛隊呉地方隊は約1万人の隊員を抱えているらしい。1万人分の消費活動は無視できない。経済界が歓迎する気持ちは、よくわかる。人口減少に悩む地方経済にとって、防衛整備は光明にもみえる。背に腹は代えられない。
鹿児島県でも防衛施設の整備が進む。同県は南西諸島防衛の最前線といったところだ。ここでも呉市と似た背景をもつ。

呉鎮守府
 呉市の防衛拠点化計画に、複雑な思いをよせる人々もいる。記事は、戦争体験者の声を掲載している。思いを吐露したのは、91歳の女性である。

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彼女は空襲の記憶を鮮明にもっているそうだ。郊外の高台にあった自宅から無数の焼夷弾が市街地に降り注ぐ光景を目撃。街は一晩中燃え続けたという。

「呉に軍事施設があったから狙われた。二度とあんなことが起こってはいけない」と、彼女は述べる。戦争体験をもつ人たちは、記憶がよみがえるのだろう。

 先月25日放送の「NNNドキュメント 戦前リアル」をみた。アメリカのシンクタンクによるシミュレーションで、日本国内の米軍基地も中国の攻撃を受ける可能性が高いと指摘した。

 防衛拠点整備によって、地元経済が活性化すると期待する気持ちもよく分かる。また、戦争体験者が危惧する気持ちもよく分かる。広島県や呉市の人たちは、悩ましい問題を抱えることになるかもしれない。さまざまな思いをもつ人たちが、意見交換できる場が必要だろう。

 防衛拠点整備が「国策」の意味を含みだすと、一気に話がすすむ。そこに議論の場はない。鹿児島県は、よい例であろう。報道で、東シナ海上の中国軍の動きを見ていると、危機感がつのる。だが、南西諸島という長大な防衛ラインをどのようにして守るのか。先の大戦は教訓を示しているかもしれない。

追記
 掲載した画像は、昭和20年3月19日の呉空襲を写した1枚である。米軍文書の表紙に掲載されている。攻撃の様子は、アニメ映画『この世界の片隅で』で描かれた気がする。


参考文献
毎日新聞2024年7月23日付
「戦前リアル」NNNドキュメント2024年8月25日放送
posted by 山川かんきつ at 11:42| Comment(0) | 各都市への空襲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする