2024年12月30日

子どもたちの問い

 新聞の投稿欄に目を通していると、子どもたちから教えられることが多い。純粋なだけに、鋭い問いと意見を述べている。
12月6日付南日本新聞の「ひろば」に、中学3年生の投稿に目がとまる。こうつづる。

 改憲、憲法9条、台湾有事、ロシア…。私たちに近づく戦争の足音。私はニュースで目に映る「戦争」という文字に恐怖を覚える。

 投稿は、こう結ばれる。

 思考を止めてはいけない。選挙へ向かう足をとめてはいけない。一人一人の思いで、戦争のない平和な未来を守ろう。

 戦争を身近に感じる子がいたことに、驚かされた。この子は、新聞やテレビなどの報道によく接しているかもしれない。この子なりに、理解しているようだ。
投稿文を読んでいて、すこし気になった点がある。
広島市と長崎市に投下された原爆を記すとともに、昭和20年6月17日の鹿児島大空襲についてふれていた。

 鹿児島市の空襲といえば、やはりこの日を指すのだろう。地元メディアやウエブ上でも、6月17日ばかり触れる。鹿児島市は8回の空襲を受けたと報ずるにもかかわらず、この日の爆撃のみである。それは何故だろう? 各メディアに尋ねてみたい。
これまでメディアが、戦争についてどのように報じてきたか、それと繋がる。

 昭和20年6月17日の空襲について、細かいことをふれる。
米軍資料によると、この日の空襲は6月17日から18日にかけて行われている。午後11時06分に初弾を投下。延々106分間にわたった空爆は、日付が変わっても続けられている。
対空砲火も烈しい所もあったようだ。
この日に投下された焼夷弾は3種類。爆撃高度は7000フィートから7800フィート。
空襲に関する報道に接していると、情緒に訴える記事が多い気がする。時には、冷静に分析した報道も必要と思う。

また、投稿主の通う学校区を考慮にいれると、鹿児島市小松原は飛行場に最適地と米軍は見ていたようです。「excellent」と評している。
当時、薩摩半島と大隅半島にあった航空基地について触れるつもりでいる。その際、再度触れることになると思う。

 鹿児島県と戦争を中心に調べる筆者にとって、昭和史に関心寄せる学生がいることに希望を感じる。筆者の周りにいる大人たちは、戦争のあった時代に関心がないようだ。彼らの歴史観をうかがっていると、「島津に暗君なし」と「維新の大業」が鹿児島県の歴史と考えている風がある。戦争のあった時代は、鹿児島県の歴史ではないといいたげである。

 それはなぜか? すこし考えてみる。
要因のひとつに、情報量の差があると思われる。藩政期から明治維新、西南戦争までは、二次史料は言うまでもなく、一次史料までそろっている。鹿児島県立図書館に行くと、一目瞭然である。
一方で、「十五年戦争」に関する書物は、圧倒的に少ない。また、地元メディアも島津氏と維新の志士たちに関する報道が目立つ。十五年戦争に接する機会が少ない。

筆者は、『鹿児島市史』と『鹿児島市戦災復興』に掲載されている空襲の記事について懐疑的だ。その内容が、米軍資料の記述と異なる。また、戦争体験談とも一部異なる。
こうしたことから、戦時中に関心を寄せる子どもたちに、しっかりした資料をもとにした空襲の記録を手渡したい、と思っている。


参考文献
「南日本新聞ひろば」2024年12月6日付
posted by 山川かんきつ at 15:49| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年12月27日

傍観と記録

 いつだって、ただ傍観し、人の痛苦を記録することしかできないことはつらいことだった。 写真家・ロバートキャパ

 今月22日付朝日新聞のコラム、天声人語でキャパの言葉が紹介されていた。
筆者が知るキャパの写真は、スペイン内戦をとらえた「崩れ落ちる兵士」とノルマンディ上陸作戦の2葉。いずれの写真も時代を記録した貴重な資料である。

 冒頭に記したキャパの言葉に、「傍観」と「記録」がある。同じことを書き残した日本人作家がいた。山田風太郎である。『戦中派不戦日記』の“あとがき”でこう記す。

新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫) - 山田風太郎
新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫) - 山田風太郎

 結局これはドラマの通行人どころか、「傍観者」の記録ではなかったかということであった。むろん国民のだれもが自由意志を以て傍観者であることを許されなかった時代に、私がそうであり得たのは、みずから選択したことではなく偶然の運命に違いないが、(途中省略)。
 それに「死にどき」の世代のくせに当時傍観者であり得たということは、或る意味で最劣等の若者であると烙印を押されたことでもあったのだ。


 風太郎は戦後と戦前・戦中を比較する。

 現在の自分を思うと、この日記中の自分は別人のごとくである。昭和二十年以前の「歳月と教育」の恐ろしさもさることながら、それ以後の「歳月と教育」の恐ろしさよ、日本人そのものがあの当時は今の日本人とは別の日本人であったのだ。


 戦後と戦前・戦中の日本人は別物と評する一方で、変わらない面も感じていたようだ。

 日本人もいまの日本人がほんとうの姿なのか。(途中省略)私も日本人も、過去、現在、未来、同じものであるまいか。げんに「傍観者」であった私にしても、現在のぬきがたい地上相への不信感は、天性があるにしても、この昭和二十年のショックで植えつけられたと感ずることが多大である。

 風太郎は、あとがきをこう結ぶ。

 人は変わらない。そして、おそらく人間の引き起こすことも。

 『戦中派不戦日記』は、山田風太郎が医学生時代に書いた日記である。23歳の青年が見聞きし、所感を記す。手を入れずに出版したそうだから、またとない一次資料である。
NHKスペシャル、新ドキュメント太平洋戦争は、庶民の日記をもとに製作されている。
子育て中の若い母親や商売主、工員など様々な人々の視点で描かれる。

 山田風太郎が『戦中派不戦日記』で記す。

 だから、あの戦争の、特に民衆側の真実の脈搏(みゃくはく)を伝えた記録が出来るだけ欲しい。

 鹿児島の空襲を調べていると痛感することがある。それは、当時県や市町村が作成したであろう記録が見当たらないということである。
終戦直後に、記録の焼却処分が命じられたようだが、それを命じた文書も見当たらない。
さまざまな研究者によって、記録の発掘があるだろう。かなりの時間がかかるだろう。

 鹿児島市の空襲にこだわっている。『鹿児島市史第2巻』と『鹿児島市戦災復興誌』が記す空襲の記述を鵜呑みにしてはいけない。記述された根拠に視点をおくと、戦後10年以上経って出版された個人の回想録に拠っている。そこに同時性がない。

別冊 バイアスの心理学 (Newton別冊) - ニュートンプレス
別冊 バイアスの心理学 (Newton別冊) - ニュートンプレス

 認知バイアスに、「事後情報効果」がある。2つの性質があるらしい。
@ 人間の記憶は、後から入ってきた情報に変化する。
A 質問の仕方によって記憶が変わってしまう。

 人間の認知機能に、こういった性質があることも考慮しつつ回想録や体験談などを読む必要があるようだ。


参考文献
「天声人語」2024年12月22日付朝日新聞
『戦中派不戦日記』(山田風太郎・講談社文庫・2019年)
『Newton別冊 バイアスの心理学「認知」のメカニズムと心のクセに迫る』(2023年)
posted by 山川かんきつ at 03:28| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年12月21日

鹿児島検定

 先日、鹿児島市立図書館まで赴いた。書棚サーフィンをしていると、2冊の本に目がとまる。『かごしま検定鹿児島観光・文化検定 公式テキストブック』と『増補改訂版鹿児島観光・文化検定公式テキストブックかごしま検定』。

かごしま検定 過去の試験問題及び模範解答集 マスター(標準クラス)試験編 - 鹿児島商工会議所
かごしま検定 過去の試験問題及び模範解答集 マスター(標準クラス)試験編 - 鹿児島商工会議所


増補改訂版 かごしま検定―鹿児島観光・文化検定 公式テキストブック― - 原口 泉, 大木 公彦, 中村 聡志, 東川 隆太郎, 久本 勝紘, 藤田 聖二, 鹿児島商工会議所
増補改訂版 かごしま検定―鹿児島観光・文化検定 公式テキストブック― - 原口 泉, 大木 公彦, 中村 聡志, 東川 隆太郎, 久本 勝紘, 藤田 聖二, 鹿児島商工会議所


 島津氏の時代から西南戦争までの歴史に関心はない。明治時代以降のページをめくる。
「鹿児島大空襲と敗戦」に目を通したのだが、その内容に首をかしげた。
短い文章に鹿児島市の戦災について記している。実数制限があるなかで、かなり端折っているのは理解している。
そこで、何が分からないのか記してみる。両書の記述は、次のとおり。

 1944年にサイパンが陥落すると、鹿児島への爆撃が始まった。鹿児島市に限らず農山漁村部も攻撃にさらされた。1945年3月に郡元の海軍航空隊(旧・鹿児島空港)が爆撃を受け、6月17日の空襲では、110機以上のB29による波状攻撃で、2316名の市民が犠牲になった。7月には鹿児島駅付近を中心に攻撃を受けた。敗戦までに8回の空襲を受け、鹿児島市街地の93%を焼失した。

 まず1点目。
「サイパン陥落と鹿児島空襲の関係」である。サイパン島の戦闘は、1944年6月15日〜7月9日。本文に「鹿児島への爆撃」とあるが、「鹿児島県」と「鹿児島市」のどちらを指しているのか分からない。すぐ後に来る文章に、「鹿児島市に限らず」とあるから「鹿児島県」を指すのだろうと思われる。1944年10月10日の空襲が念頭にあるかもしれない。

 本文を読んでいると、サイパン陥落後すぐに鹿児島県への空襲が始まったようにとれる。
だが、薩摩半島と大隅半島にあった航空基地が初めて攻撃を受けるのは、1945年3月18日である。根拠は、米軍資料の『AIRCRAFT ACTION REPORT(艦載機戦闘報告書)や第五航空艦隊資料、鹿児島日報などである。
サイパン陥落と鹿児島の空襲との関係性について、今の筆者は答えを持たない。

 2点目。
「1945年3月に郡元の海軍航空隊(旧・鹿児島空港)が爆撃を受け」である。
「海軍航空隊(旧・鹿児島空港)」の記述がわからない。
鹿児島航空基地(旧・鹿児島空港)とあれば、理解できる。海軍航空隊が具体的に何を指すのだろうか。「鹿児島海軍航空隊」か「九州海軍航空隊」を指すと思われる。

鴨池小学校に「海軍航空隊鹿児島航空基地」と記された記念碑が建っている。以前から疑問を抱いているのだが、「海軍航空隊」はどういった意味であろうか。
終戦直後、この地に兵舎が残り教育施設や鹿児島市電の施設として使われている。その際も「海軍航空隊の建物」と、記されている。
つらつら考えるに、「海軍航空隊」とは「鹿児島海軍航空隊」と「九州海軍航空隊」を指していないようだ。
航空基地があったことから、すべてをひっくるめた呼称と筆者は考えている。

 3点目。
「敗戦までに8回の空襲を受け、鹿児島市街地の93%を焼失した」の記述である。

 鹿児島市の空襲は8回とされてきた。米軍資料やUSSBS資料、鹿児島日報などに目を通すと、少なくとも10回。おそらくそれ以上になると思われる。これから、実証されるだろう。

 もうひとつ。本文に「鹿児島市街地の93%を焼失」とある。
戦後につくられた戦災地図をみると、下荒田町や旧郡元町は戦災を免れた地区がある。
その辺りを考慮すると、93%の焼失はどうなのだろう。
93%は、測量をした結果の数字であろうか。ファクトチェックをかける必要がありそうだ。

 来年は終戦から80年経つ。
「しっかりした根拠」を示しながら、鹿児島県と戦争について見直す契機になればと思う。


参考文献
『かごしま検定鹿児島観光・文化検定 公式テキストブック』(鹿児島商工会議所・2012年 南方新社)

『増補改訂版鹿児島観光・文化検定公式テキストブックかごしま検定』(鹿児島商工会議所・南方新社・2015年)
posted by 山川かんきつ at 09:20| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする