12月6日付南日本新聞の「ひろば」に、中学3年生の投稿に目がとまる。こうつづる。
改憲、憲法9条、台湾有事、ロシア…。私たちに近づく戦争の足音。私はニュースで目に映る「戦争」という文字に恐怖を覚える。
投稿は、こう結ばれる。
思考を止めてはいけない。選挙へ向かう足をとめてはいけない。一人一人の思いで、戦争のない平和な未来を守ろう。
戦争を身近に感じる子がいたことに、驚かされた。この子は、新聞やテレビなどの報道によく接しているかもしれない。この子なりに、理解しているようだ。
投稿文を読んでいて、すこし気になった点がある。
広島市と長崎市に投下された原爆を記すとともに、昭和20年6月17日の鹿児島大空襲についてふれていた。
鹿児島市の空襲といえば、やはりこの日を指すのだろう。地元メディアやウエブ上でも、6月17日ばかり触れる。鹿児島市は8回の空襲を受けたと報ずるにもかかわらず、この日の爆撃のみである。それは何故だろう? 各メディアに尋ねてみたい。
これまでメディアが、戦争についてどのように報じてきたか、それと繋がる。
昭和20年6月17日の空襲について、細かいことをふれる。
米軍資料によると、この日の空襲は6月17日から18日にかけて行われている。午後11時06分に初弾を投下。延々106分間にわたった空爆は、日付が変わっても続けられている。
対空砲火も烈しい所もあったようだ。
この日に投下された焼夷弾は3種類。爆撃高度は7000フィートから7800フィート。
空襲に関する報道に接していると、情緒に訴える記事が多い気がする。時には、冷静に分析した報道も必要と思う。
また、投稿主の通う学校区を考慮にいれると、鹿児島市小松原は飛行場に最適地と米軍は見ていたようです。「excellent」と評している。
当時、薩摩半島と大隅半島にあった航空基地について触れるつもりでいる。その際、再度触れることになると思う。
鹿児島県と戦争を中心に調べる筆者にとって、昭和史に関心寄せる学生がいることに希望を感じる。筆者の周りにいる大人たちは、戦争のあった時代に関心がないようだ。彼らの歴史観をうかがっていると、「島津に暗君なし」と「維新の大業」が鹿児島県の歴史と考えている風がある。戦争のあった時代は、鹿児島県の歴史ではないといいたげである。
それはなぜか? すこし考えてみる。
要因のひとつに、情報量の差があると思われる。藩政期から明治維新、西南戦争までは、二次史料は言うまでもなく、一次史料までそろっている。鹿児島県立図書館に行くと、一目瞭然である。
一方で、「十五年戦争」に関する書物は、圧倒的に少ない。また、地元メディアも島津氏と維新の志士たちに関する報道が目立つ。十五年戦争に接する機会が少ない。
筆者は、『鹿児島市史』と『鹿児島市戦災復興』に掲載されている空襲の記事について懐疑的だ。その内容が、米軍資料の記述と異なる。また、戦争体験談とも一部異なる。
こうしたことから、戦時中に関心を寄せる子どもたちに、しっかりした資料をもとにした空襲の記録を手渡したい、と思っている。
■参考文献
「南日本新聞ひろば」2024年12月6日付
ラベル:昭和20年6月17日〜18日 鹿児島大空襲