2025年02月24日

昭和20年3月18日 列車銃撃・鹿児島

 前回、西鉄電車銃撃についてふれた。
アメリカ海軍資料の『AIRCRAFT ACTION REPORT』(艦載機戦闘報告書)によると、鹿児島県内でも列車に対する機銃掃射が行われていた。
今回は、昭和20(1945)年3月18日の鹿児島航空基地に対する攻撃を記した文書をもとに記してみる。

19450318 kagoshimaAF battan.jpg

昭和20年3月18日 鹿児島航空基地
 午前5時30分、空母ハンコックから発艦したコルセア16機は、鹿児島航空基地を目指した。13機が機体組立工場を攻撃。この工場は、おそらく第22海軍航空廠鹿児島補給工場と思われる。

 帰路、2ヶ所で汽車に対して攻撃をおこなっている。
@Uzaki
A locomotive at Uzaki, 9miles Southwest of Kagoshima, was strafed and rocketed. Damage was unassessed.
A locomotive was attacked in the station at Uzaki by a two plane section lead by lieut,(Jg)EBERLE.


 直訳すれば、鹿児島市の南西9マイルのUzakiで、汽車に機銃掃射とロケット攻撃。損害は不明。
EBERLE中尉率いる2機が、Uzakiにある駅で汽車に機銃掃射。

 おそらく、鉄道は南薩鉄道と思われる。米軍作成地図をみると、現在の南さつま市周辺に「Osaki」とある。「薩摩万世駅」と考えているのだが、同地は鹿児島市から14マイルから16マイル離れている。同駅でないかもしれない。

kagoshima pref map.jpg

AZuka
A locomotive and freight train was rocketed and strafed at Zuka. The train stopped and clouds of steam was seen to envelope locomotive.

直訳してみる。Zukaで汽車と貨車にロケット攻撃と機銃掃射。汽車は停止し蒸気で覆われた。

 文書のいう「Zuka」が、どの地域を指すのか不明である。この日、伊集院駅に向けて走行中の列車が攻撃を受けたとする体験談がある。それと関係があるかどうか、いまのところ不明である。
「Uzaki」と「Zuka」を確認するために、当時の記録が欲しいところである。

加治木・国分間で機銃掃射
 14時15分、空母バターンを発艦したヘルキャット8機は、鹿児島航空基地を目指した。同飛行場で戦闘機掃討を目的に飛来したのだが、敵機はなかった。出水航空基地攻撃へと向かった。その帰路のことである。

 A train was strafed between Kokubu and Kajiki, Kyushu, with undetermined result.

直訳すると、国分・加治木間で列車に機銃掃射したが、戦果は未定。

 機銃掃射は、午後4時から5時の間であろうと思われる。門司鉄道局鹿児島管理部が、記録を残していたであろうと推測するが、まだ文書を見いだせていない。
できれば、当時の記録が残されていればよいのですが…。

鹿児島市で列車に機銃掃射
 14時30分、空母フランクリンから発艦したヘルキャット2機とコルセア6機は、出水と鹿児島との両航空基地をめざした。これらの基地を撮影するためである。
出水基地を攻撃後、鹿児島市上空に差しかかった時のことである。

 While returning to base two trains were sighted north and east of Kagoshima airfield.
All eight planes strafed and steam explosions of the locomotive resulted.


 直訳する。
 帰還途中、鹿児島飛行場の北と東で2本の列車が目撃。8機が機銃掃射を行い、機関車は蒸気爆発を起こした。

 「鹿児島飛行場の東」は、分かりかねる。大隅半島を走る列車を指しているだろう。
今回は3例あげてみた。当時、鉄道被害を記録した文書が発見されるかもしれない。
米軍の資料と突き合わせることで、空襲の実態が分かってくるだろう。

■関連記事
 「昭和20年8月8日 西鉄電車銃撃
 http://burakago.seesaa.net/article/510513035.html
posted by 山川かんきつ at 22:02| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月19日

昭和20年8月8日 西鉄電車銃撃

 先日、毎日新聞で「伝承顔が見えてこそ 終戦直前西鉄電車銃撃犠牲者資料なく」を読んだ。
昭和20年8月8日、福岡念筑紫村(現・筑紫野市)を走行中の電車が米軍機から銃撃され、多くの乗客が亡くなったそうだ。

 記事によると、被害をつづる当時の記録が見当たらないらしい。死傷者数についても明確にならないそうだ。同教委は、事実を掘り起こそうと、電車の乗客や遺族、目撃者の聞き取り調査に乗り出している。
そんなか、市教委は米国立公文書館で作戦報告書を入手。電車を攻撃したのが、沖縄県の伊江島から発進したP51戦闘機マスタングであったことがわかった。

 こうやって、少しずつ空襲の実態がわかってくるのだろう。鹿児島市の空襲被害を聞き取り、犠牲者を明らかにした書物がある。『あゝ四月八日 田上の空襲の記録』。
同書は、昭和20年4月8日に発生した鹿児島市空襲を記している。
この日、鹿児島市田上町で爆撃があり100余名の死者が出ている。遺族の聞き取りをもとに、氏名や被弾場所などを一覧表にしている。貴重な記録である。

 『鹿児島市史第2巻』と『鹿児島市戦災復興誌』は、この日の空襲を「米軍機数十機は・・・」と曖昧に記す。アメリカ陸軍第21爆撃機集団の文書『Tactical Mission Report』によれば、B29爆撃機が攻撃していた。
当日の天気は曇り。機影を見た者は、いなかったと思われる。鹿児島日報の記事は、「雲上より盲爆を・・・」と記す。

 『あゝ四月八日 田上の空襲の記録』によると、当時の田上町は農村地帯。詳細な情報が市民に入らないため、さまざまな憶測が飛び交ったようである。
当時の市民たちが、情報をどのように得ていたか。流言飛語も含めて調べてみたいと考えている。

 昭和20年8月8日に話を戻す。
筆者は、アメリカ陸軍第7航空軍、同第5航空軍の資料を持たない。そのため、沖縄基地を発進した米軍機の動きはわからない。そのため、艦載機とB29の動向をさぐっているところである。

筆者の持つアメリカ第5航空軍の資料に「Strafing mission」題された文書がある。
1945年8月8日に、次のような記述がある。

 9 Sorties. Strafed U/I factory building at Takase RR junction 32°55’N-130°34’E.
Hit on factory at Yatsushiro, 32°30’N-130°37’E.
2 strafing passes on U/I factry at Marushima(32°12’N-130°24’E)

 ご当地の方は、これらの空襲についても調べると良いかもしれない。
当時の米軍は九州をひとつの島と見ていたようである。1945年5月15日作成の文書に、「Kyushu Island」とある。
 九州各地の空襲を調べる際は、九州への攻撃といった視点も必要かもしれない。


参考資料
「伝承顔が見えてこそ 終戦直前西鉄電車銃撃犠牲者資料なく」(2025年2月11日付毎日新聞)
『あゝ四月八日 田上の空襲の記録』(田上の空襲を記録する会・1984年)
posted by 山川かんきつ at 10:23| Comment(0) | 各都市への空襲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月13日

戦前・戦後の断層

 昭和43(1968)年に、鹿児島県明治百周年記念式典が行われたそうだ。
想像するに、大きなイベントだったのではないか。地元メディアは、維新の大業として連日にわたって報道したと思われる。

 そのような中で、明治維新を冷静に見ていた人物が2人いた。『明治百年と鹿児島』と題する一冊に掲載されている。
ひとりは、篠崎五三六さん。当時、鹿児島女子短期大学で教鞭をとられていた方である。略歴を見ると、旧制中学校長を歴任するなど長く教育に携わっている。

戦前戦後の断層 篠崎五三六
 政府は、国としての明治百年記念行事を、「過去百年の事績を回顧し、次の百年への希望をこめて国民の決意を新たにする機会とする」という立場で企画実施するという。そして「封建時代から脱却し、近代国家建設という目標にむかってまい進した、世界史にも類例をみぬ飛躍と高揚の時代であった。この百年における先人の勇気と聡明と努力」を、従って、これら先人に対する「敬意と称賛の念」を強調する。

 このことは「維新の主役たち」を先輩としてもち、「その原動力は、当時の鹿児島の人々の先見的知識と、生生躍動する地域社会の総合的エネルギーであった」とするわが鹿児島のようなところでは、まことにわが意を得たものといえよう。


 明治維新に対する解釈は、現代も変わらない。篠崎の指摘どおりである。同氏は戦後20数年を経た社会に対して、疑念を抱く。

 主権在民の憲法をもち、人間性の尊厳と個人の自由とを基調とする、基本的人権が認められたのは、それから八十年も後のことである。それも、われわれ自身の努力ではなく、敗戦という全く予想もしなかった外部からの力に支えられて、そしてようやく二十年、古いものはまだ力強くその根を残し、新しい生命はまだろくに根を張ってもいない。
これが明治百年の現状ではなかろうか。

 
 このような現状の中で、その古き時代の、時には封建の世界の中で生まれ育った、伝統や精神や行事などの幾つかが強調されようとしている。

 そうして、篠崎氏は維新礼賛の風潮に対して釘をさす。

 過去においてすぐれていた、意義があったという評価だけから、これを安易に現代に再現することは、慎むべきである。
明治百年は、戦前戦後の断層の認識と、その評価から始めるべきだと考える。


 もうひとり、維新礼賛に批判的な論考をつづった人物がいる。作家の島尾敏雄である。

琉球弧を目の中に 島尾敏雄
 私は歴史を流動するすがたでとらえたいと考えています。仮にある期間を区切るとしても、それはひとつの便宜的な手段としえのことだと考えたい。
 明治百年を言うにしても、明治の初年が基点であるのではなく、その時期は流動する日本の歴史の川の流れの中で、顕著なひとつの曲がりかどになったところだと理解したいのです。


 島尾はつづける。

 明治初年の鹿児島県の栄光を菊人形のように固定させたくはありません。そこのところにばかり気を奪われると、歴史は死んでしまうでしょう。目の位置の低いところでしか日本のすがたが見えず、狭い愛郷趣味に落ち込んでしまうような気がします。

 筆者は昭和43年の祭典を知らない。明治150周年記念事業は目にした。メディアが明治維新をどのように報ずるか注視していた。
明治維新を絶対化するばかり。別な視点で相対化する姿勢は見られなかった。
島尾氏の指摘どおり、「目の位置の低いところでしか日本のすがたが見えず、狭い愛郷趣味に落ち込んでしまう」だったと思う。

 篠崎氏と島尾氏の冷静な論考は、維新礼賛に沸く人々の心に届かなかったかもしれない。
イベントに水をさす位の評価だったと思われる。その後も、2人の論考が顧みられた様子はない。
鹿児島の場合、歴史的評価が一つだけという風潮は、これからも変わらないかもしれない。

参考資料
『明治百年と鹿児島』(南日本新聞社・昭和42年)


posted by 山川かんきつ at 05:08| Comment(0) | 鹿児島の近代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする