吉田裕著『日本人の歴史認識と東京裁判』に、次のような記述がある。
私はこれまで、兵士の回想記などをかなり多く見てみたのですが、その中でよく目にするエピソードがあります。太平洋の孤島で米軍機が日本軍機によって撃ち落されると、搭乗員がパラシュートで下りてくる。そうすると、アメリカの場合は潜水艦や飛行艇等が救助に来るんですね。アメリカというのはやっぱり人命を大切にする国なのだな―そういう実感を持ってその光景を眺めていた人たちがいます。
吉田先生は、太平洋に浮かぶ小さな島での出来事を戦争体験談から紹介する。撃墜された航空機を救助に向かう米軍。これは1945年3月18日付「AIRCRAFT ACTION REPORT」に記録されている。しかも、錦江湾(鹿児島湾)上である。
■空母ホーネット
1945年3月18日午前8時15分、空母ホーネットから20機のヘルキャットが発進。
攻撃目標は、鹿屋航空基地と指宿水上基地、鹿児島湾上の船舶。鹿屋基地に対して2度目の攻撃を仕掛けた際、事件は発生した。
While making the second strafing attack on the field, Ens. John P. WRAY, (A1), USNR, File No. 368879 was evidently hit by enemy anti-aircraft fire. His plane was seen to go down smoking, but he made a successful landing in KAGOSHIMA BAY at last. 31-13-30N, long. 130-44-00E.
Air-Sea rescue procedure was instituted immediately and planes orbiting saw WRAY leave the plane and get into his life raft. Orbiting planes were forced to leave the scene of the crash by gasoline shortage prior to the arrival of the rescue seaplane.
The seaplane arrived and picked up another downed pilot approximately 5 miles SW reported position and searched the area for others with negative results.
抄訳してみる。
鹿屋飛行場に対する2度目の機銃掃射中、John. P. WRAY大尉機に対空砲弾が命中。
同機は煙を吐きながら墜落。鹿児島湾の北緯31度13分30秒、東経130度44分00秒に不時着水。救援機が即座に行動し、着水上を旋回しながら大尉の救命ボートを確認。
しかし、救援機はガス欠のため現場を離れなければならなくなった。
飛行艇が現場海域に到着。大尉ではなく別のパイロットを南西5マイル地点で救助。
その後、同エリアを捜索したがWRAY大尉を発見できなかった。悲観的な結果となった。
WRAY大尉が不時着水した「北緯31度13分30秒、東経130度44分00秒」をグーグルアースで確認する。指宿水上基地と現南大隅町との間の海域だった。
戦争体験談を読み直せば、この事件の目撃談を見いだせるかもしれない。
空襲被害を調べている先達の研究に目を通していると、戦争体験談を読み込んでいるのが分かる。米軍資料と戦争体験談を照らし合わせながら、戦争の実態に迫るより方法がない。
日本側の資料があればよいのだが・・・。
■参考文献
『日本人の歴史認識と東京裁判』(吉田裕・岩波ブックレット・2019年)
「AIRCRAFT ACTION REPORT REPORT No.33」