アメリカで記者として活躍した後、日本に帰国している。
清澤は1945(昭和20)年5月21日、肺炎がもとで死亡。彼が残した著作や評論などは、一次資料である。清澤はリベラリストと評され、冷遇されていた。
清沢の著作や評論に目を通すと、現代人と変わらぬ視点で当時の政治や外交、経済、社会を分析している。
『米国戦略爆撃調査団文書』の「Summary report」と相性が良い。また、ジャーナリズム論になると、上智大学・佐藤卓己教授の論考と重なるところがある。
清澤に世に出ていない日記があると、日本経済新聞が伝えていた。
記事によると、清澤は「ロンドン海軍軍縮会議」を現地で取材。首席全権の若槻礼次郎と懇談し、随員の人間性などを記しているそうだ。
清沢は、会議について次のように記す。
僕は『日米戦争』を仮想することを捨てて、ただ東洋の平和のために軍艦を造る案を立てよとの意見だ」(1930年1月18日)
海軍はメンツを捨てろ。真の国益を考えれば、米との戦争を想定した「対米比率」という発想自体がおかしい。
日記と関連すると思われる評論がある。昭和7(1932)年の書き下ろした「アメリカは日本と戦わず」である。冒頭で次のようにつづる。
いくら流行を追う世の中でも、この日米戦ものの多い出版界に、もう一つを加える必要があるのか。
太平洋の波が、かりにどんなに静かであろうとも、こう繰り返し暗示をかけられれば、そのためだけからでも、大事に至らないと誰が保証し得ようぞ。
暫く米国におって、満州事件と、上海事件と、戦争論とに米国輿論の空気を吸っていた私が、その印象の醒めない内に、これを書くのは、わが国民が時局を正視するのに役立ちはしないかというのが、出版者の狙いどころだったのだ。
清澤が帰国した際、出版界は日米戦争に関する書物が多数刊行されていたらしい。清澤は、それについて危惧する。
雨後の筍(たけのこ)のように出る日米戦争に関する出版物がまた、米国の戦意について語るものであるのは無論である。
それ以前に日本に沸き立っている日米戦争論の声を顧みることを忘れてはならぬ。世界如何なる国において、現在日本におけるような戦争論が流行を極めているところがあろうか。国家を賭し、何十万の生命を犠牲にするところの真剣なる戦争を、まるでスポーツのような気持ちで論じ、叫び、興味を以て見ているではないか。
これに対して外国が備えないわけはない。特に最近日本を訪問した米人はことごとく恐日論者になって帰るのが常である。
昭和のはじめ、「日米戦争」が声高に叫ばれる空気があったようだ。
国力を考えれば、戦争ができないのは明らかなのだが、威勢のよい声や言葉だけが広まっただろうか。
そこには、ロンドン海軍軍縮会議に不満をもつ者たちの意図が隠れているかもしれない。
この会議以降、「統帥権の独立」や「統帥権干犯」などの言葉が声高に叫ばれるようになる。
締結以後の歴史をみると、この会議は重要だったと思う。清澤の評論に「わが児に与う」がある。
お前がこの文章がわかる頃になったら、昭和七八年の頃のことを歴史的立場から顧みてくれ。
清澤は昭和七、八年に何かを感じ取ったのだろう。具体的なことは分からない。評論や日記から探るほかない。
後世の者から清沢の著作は歴史書なのだが、彼にとっては現在進行形の事象だった。
不思議な感じがする。
■参考文献
「戦時の評論家・清沢洌の未公刊日記」2025年3月31日付・日本経済新聞
『暗黒日記』(清沢洌・評論社・1995年)

暗黒日記: 戦争日記1942年12月~1945年5月 - 清沢 洌, 橋川 文三
『清沢洌評論集』(清沢洌・岩波文庫・2013年)

清沢洌評論集 (岩波文庫 青 178-2) - 清沢 洌, 山本 義彦