『明治35年八幡校区及其附近地図』を見ると、今の天保山中学校から鹿大水産学部周辺は塩田の多い土地でありました。「古田(こでん)の浜」「上ノ浜塩田」「与次郎浜塩田」など。
下荒田2丁目は、天保山中学校近くに「古田ヶ浜公園」があります。
むかしこの周辺が古田の浜と呼ばれていた名残を僅かにのこしているようです。
塩田は堤で守られおり、与次郎浜のものは「沖ノ土堤」呼ばれ松見崎(鹿大水産学部辺り)まで続いていました。水産学部裏手に植わっている松は、この辺りが砂浜だったことを伝えるものかもしれません。
【 御船手堀 】
喜入屋敷(現在婦人会館)の前を、「御船手堀」と呼ばれる運河が流れていました。
御船手堀は、現在の国道225号線「浜橋北口交差点」から城山ストアー方面へ入り、ミドリ薬品前の交差点を右折し、そこから甲突川まで流れていたようです。
誤差を気にせず、堀の道筋を大まかに記述しています。
御船手堀には、御船手という湊がありました。幕末、寺田屋事件で傷を負った坂本龍馬とおりょうが薩摩入りした際、降り立ったところが「御船手」であったようです。
その後、二人は日本最初の新婚旅行にでかけました。
【 天保山 】
御船手堀から天保山までのところは、甲月川によって広い三角州が出来ており藩政時代に三角州の周囲に石垣をめぐらし、塩田が設けられました。
天保山は、天保年間に甲突川の氾濫を防ぐため、河口付近で土砂を浚って積み上げたところでありました。
斉彬公のとき藩兵の閲兵式場に使用され、明治維新後は陸軍演習地となりました。
塩田は、満潮のときに海水を引き入れ、干潮のときに海水を干す仕組みでありました。
ところが、大正3年桜島大噴火後、一時地盤の低下をきたして附近土地が沈降してしまいました。
そのため塩田の海水が干されなくなって、荒田方面の製塩業は休止せざるをえなくなりました。
その後、「古田の浜」と「上の浜」の一部は埋立てられ、住宅地となりました。
【 与次郎ヶ浜 】
国道225号線「浜橋北口交差点」から水産学部近くまでの塩田約3万坪が、「与次郎ヶ浜」と呼ばれていました。
この塩田を造ったのが、「平田与次郎」という人でありました。
与次郎ヶ浜構築の年代は不明ですが、与次郎は弘化3年12月に亡くなっていますので、それ以前天保頃のことと思われます。
平田与次郎は、代々農家でありましたが早くから製塩事業に従事していました。
藩命によって赤穂の塩田視察にも行き、この道の先覚者で与次郎ヶ浜の塩田工事を完成させました。
言い伝えによりますと、塩田工事の潮留に与次郎は、普請小屋で七日七夜精進潔斎してから取り掛かりました。藩庁から人柱として賜った3人の罪人を密かに逃がして、代わりに藁人形を埋めたと子孫は言い伝えているようです。
荒田浜の塩田は、斉興の時代に調所広郷の勧業政策によって開発されました。さらに斉彬によっても引き継がれ、郡奉行山口九十郎に塩田開発を命じ、山口は荒田村、中村の両所に赤穂伝の製塩を開きました。
このようにして荒田浜においては、漁業と製塩が行われており、これが後代まで続いて下荒田の特殊な産業となりました。
荒田浜は、荒田八幡宮の浜下り行事が行われる神聖な場所でありました。
また、倭文麻環には「荒田の浜の怪物」の逸話が掲載されています。
海に突き出た天保山と鴨池飛行場の跡地に囲まれた入り江の海に、与次郎ヶ浜海水浴場と鴨池海水浴場がありました。
与次郎ヶ浜は、97億円かけて昭和41年から埋め立てられ、昭和47年に与次郎1丁目、2丁目となりました。
埋立の土砂は、草牟田の山を削り、鹿児島港から海水をパイプで引いて、シラスと土砂を混ぜ甲突川に敷設した送泥管で送る水搬送工法で造られたそうです。
天保山から郡元にいたる国道225号線は、そのむかし、塩田と松林がつらなる美しい砂浜であったようです。
2012年07月24日
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