中世の頃、薩摩・大隅・日向国には、大和国春日神社の社領地がたくさんありました。
鹿児島の郡も春日神社の社領地のひとつでありました。
安和2年、藤原純友という人が、社領地である鹿児島郡に赴任してきました。
彼は、弁済収納使というお役人で、主に税金を取り立てる役目を負っていました。
そのとき、藤原家の祭神である奈良大明神を今の春日神社のところに建てたそうです。
後に、藤原純友は鹿児島郡司となり、島津氏が薩摩入りする前に最初の統治者となりました。
当時の春日神社近くまで海が迫り、船着場まであったようです。
「春日町」の名は、附近の人々が春日大明神を崇敬していたことから、「春日小路町」と呼んでいました。
明治32年1月9日、「春日町」と改名され現在にいたっています。
【 柳町の由来 】
『倭文麻環』によると、「今の蛭児社の辺を築島と称う、是より浜つづきに堤ありて柳を植えられる程に、そが町となりしをば柳町と名付け・・・」と記されています。
薩藩沿革地図、他の古地図を見ると柳町の周辺は港口で、辺りには堤防も築かれていました。
港口の堤防に柳を植えことから、「柳町」と呼ばれるようになったようです。
【 栄町の由来 】
『かごしま市史こばなし』という本によると、栄町は福昌寺に由来するそうです。
応永元年に第7代藩主島津元久公は、福昌寺という禅宗のお寺を建てました。
お寺は有名な石屋(せきおく)禅師が開祖したため、禅学はたいへん盛んになりました。
禅学は、朱子学とともに薩摩において教育の礎となりました。
当時は士民の教化機関として規模も大きく、諸国のお寺からも僧侶たちが大勢あつまり、宿泊もしましたので福昌寺の前は、門前市をなすというほど賑わっていたようです。
「栄町」の名は、福昌寺門前の繁栄するところから名付けられてそうです。
「栄町」について、もうひとつ。
名勝碑によると、宝暦に年間に書かれた『通昭録』という本に、「地蔵町」と記述されています。
東は柳町、西は車町、南は行屋堀、北は下竜尾町に接していました。

『鹿児島県史料忠義公史料』という本によると、明治4年6月に「栄町」と改称されたとあります。
栄町の名は、昭和42年まで使われていましたが、同年11月1日に柳町の一部となりました。
古地図を見てみると、「地蔵町」と書かれた一画は後の栄町とうまく重なるようです。
「栄町」の名は、、希望をこめて名付けられたものと思われます。