2012年09月10日

鹿児島市新照院町の由来

■ 新照院町 ■
鶴丸城から城山のふもとを西へ向かうと、藩政時代は西田村に属していた新照院町に出てきます。
藩政時代この辺り一帯には、上山寺、新昌院、大徳寺、柿本寺というお寺が集まっていた所でありました。

『かごしま市史こばなし』によると、「城山の上山寺の脇に新照院観音寺という寺院があり、藩主家久は西田村の田地十四石をこの観音地に具進された新照院町は、この観音寺の名称による…」と記されてあります。
新照院の名は、“新昌院”というお寺の名から起こったものと思われます。

『天保年間城下絵図』をみると新昌院町と記述されており、明治22年1月9日の町名改正により「新照院町」と改名したようです。

■ 新昌院観音寺と六月灯 ■
島津18代家久公には、世継がなかなか出来なかったそうです。
そこで参勤交代の途上、京都の観音さまに沢山の灯籠を供えて祈願してようやく子宝を得ることが出来ました。その子は、19代光久公となります。

光久公は、後に新照院の観音(または上山寺観音とも言われています)に灯籠を寄進しました。
世の人々はこれに倣って灯籠を寄進し、参詣する人が多くなったそうです。
六月灯は、新照院の観音さまに灯籠をあげてお参りしたことに始まるとも言われています。

■ 新上橋 ■
新照院町から新上橋を渡ると、景色がよく閑静な別荘地でもあった「尾畔(おぐろ)」「原良」に出ることができました。
『三国名勝図会』には、尾畔、田園風景の挿絵が納められており、景色を絶賛しています。

新上橋は、弘化2(1845)年に、岩永三五郎によって造られた五石橋のうち、最初に石橋に架け替えられても四連のものでした。
急流を制御するため、アーチ造りの橋の造作や川底の石張りなど、技術の粋を尽くした橋でありました。

平成5年8月の水害により、四連のうち二連のアーチが流されたため撤去されました。
現在は、石橋記念公園に保存されています。

『古地図に見る かごしまの町』には、「新照院電停の甲突川寄りの民家の軒下には、甲突川があふれたときに使うテンマ船が吊り下げてあった」と記述されています。
甲突川沿いは、川が氾濫したという記述を目にしますが、新照院周辺は船を準備しなければならないほどであったようです。

■ 太平洋戦争中の新上橋周辺 ■
『古地図に見る かごしまの町』によると、太平洋戦争中、新上橋バス停裏はシラスの切り立った崖でありました。そこから照国神社横へ通ずる大規模なトンネル計画があり、防空壕となっていました。

昭和20年4月、アメリカ軍の空襲があり大勢の人が防空壕へ避難しましたが、爆弾で壕の入口が破壊され大きな被害を受けたそうです。

posted by ぶらかご.com at 23:55| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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