2013年04月17日

関ヶ原の戦後の薩摩藩

第25代藩主島津重豪公
薩摩国の歴史に大きな影響を及ぼした殿様と言えば、第28代藩主島津斉彬公の名前があがることでしょう。
もうひとり、薩摩に政治、経済、文化などに大きな影響をあたえた殿様がいました。
第25代藩主島津重豪公で、藩主として32年間、後見役としてさらに46年間政治に影響をあたえます。
重豪公は徹底した開化政策(現代風に言えば規制緩和)行い、文化と経済を活性化させました。
が、それに伴い莫大な借財もつくってしまいました。
今回は、重豪公が家督を継ぐまでを追ってみたいとおもいます。

■ 薩摩七十二万石
薩摩藩の石高は72万石あまりで、金沢藩の102万石に継ぐ第二の大藩でした。
しかし72万石という数字は籾高で、他藩並の石高にすれば36万石くらいになるといわれています。
領内は生産性の低い火山灰土壌に広く覆われており、米作に適した土地が多くありません。
おまけに台風や火山、土砂崩れなどの災害が多く、農業には極めて貧弱な土地でした。

薩摩藩は、他の藩にくらべ膨大な家臣団をかかえており、石高の半分以上は家臣に与える給地高が占めていました。
藩の財源となる蔵入高は、米高で13万石程度しかありませんでした。
そこからあがる貢租だけでは、藩財政は成り立ちませんでした。

藩の財政再建の切り札にしようとした海外交易は、幕府による鎖国令によって打撃を受けることになります。
琉球交易も、長崎の貿易が軌道に乗ると様々な制約が加えられるようになります。

また、江戸在府や参勤交代、御手伝普請(おてつだいぶしん)などによって、財政は破綻しかかっていました。
第19代光久公が藩主につくころは、江戸での起債ができない状態までなっていたそうです。


■ 関ヶ原戦後
関が原の合戦で、西軍側についた薩摩。
戦後、カミソリ外交ともいえる外交的駆け引きで、所領安堵を勝ち取ります。
そのとき活躍したのが、伊勢貞昌で参勤交代の基礎となった「諸侯妻子の在府制」を建言するなどして、薩摩藩の対幕府関係を軌道に乗せた人物でした。

貞昌は江戸や幕府、他藩にも名を知られ多くの大名たちと関わっていました。
晩年、幕府から年500俵の扶持米を受けるほど、江戸中に知られた人物でした。
伊勢家のお屋敷跡の石碑が、天文館の千石天神社脇に立っています。

慶長7年12月、島津忠恒は義久の代理として上洛し、徳川家康に所領安堵の御礼を言上し、
徳川氏と島津氏とのあいだに主従関係が結ばれました。

家康と拝謁した忠恒は、島津家当主(18代)として承認され、やがて藩主となります。
慶長11年6月には、家康から名前の一字を与えられ、名前を「家久」と改めました。

島津氏は薩摩・大隅・日向諸県郡60万5000石余と琉球12万3700石の計、72万8000石余を支配する大大名となりました。

島津家久公にとって喫緊の課題は、将軍家との関係を強化していくことでした。
そのため、財政難に陥りながらも江戸参勤や妻子の江戸在住、江戸城修築手伝、島原出兵などを精力的に行いました。
薩摩国内にあっては鶴丸城構築、城下での火事、災害復旧工事などでも藩財政を圧迫し続けていました。

藩財政を立て直すためリストラを断行します。
家臣から領地を返上させたり、臨時課税で切り抜けようとしますが、それでも好転しませんでした。寛永11年には藩債は銀8000貫(約13万両)に達し、光久公のときには江戸での起債が不可能な状態になっていました。
そこに、幕府のお手伝い普請という厄介な仕事がやってきます。

■ 幕府の御手伝普請
御手伝普請は、本来幕府が行うべき工事などを「御手伝い」の名目で諸大名に押し付けていたものでした。
参勤交代の制度とともに、大名の力を弱める有効な手段と考えられていました。

薩摩藩にも江戸城修築御手伝、江戸城・大阪城普請助役や寛永寺本堂造営御手伝など次々と命じられていました。
そうして、これらの工事をはるかに上回る御手伝普請がやってきました。
美濃・尾張・伊勢川々普請御手伝、いわゆる「木曽川治水工事」です。

当初、この工事費は10万〜14,5万両と見積もられていました。この金額は、薩摩藩の大坂での国産品売上高の一年分に匹敵しました。
あまりにも過酷な御手伝普請に、藩論が沸騰し幕府との一戦もやむなしといった意見も出たほどでした。

家老平田靱負(ひらたゆきえ)は、1000人余の藩士を率いて美濃へと向かいました。
宝暦4年2月、工事着手。
工事は想像以上の難工事で、幕府側が町人への工事依頼を制限したこともあって、経費がかさみ藩士にも大勢の犠牲者がでました。

宝暦5年4月、工事は終了しましたが、工事費は40万両にも達しました。
そのうち22万両は、大坂で新たに借財したものでした。
平田靱負は宝暦5年5月、幕府の検分が終わると切腹してしまいました。
藩主島津重年(24代)も心労が重なり、27歳の若さで病死してしまいました。

■ 将軍家と島津家

享保14(1729)年、5代将軍徳川綱吉の養女「竹姫」が、22代島津継豊公のもとに嫁いできました。
養女とはいえ、島津家は将軍家と血縁関係を持つことになりました。

将軍家からの輿入れには、莫大な経費が必要ということもあり、継豊公は縁談に消極的でした。
8代将軍吉宗公や大奥が縁談を熱心にすすめ、継豊公も承諾せざるを得なかったようです。
竹姫の存在は、その後の薩摩藩の運命を大きく変えることになったようです。

竹姫は継豊との間に「菊姫」という娘をもうけ、のちに福岡藩黒田重政に嫁いでいきます。
継豊の側室が生んだ宗信(むねのぶ)が、継豊隠居後、家督を継ぎますが、病死してしまいます。
宗信の弟、重年も宝暦5年に病死し、重年のひとり息子「重豪」が家督を継承します。

重豪公、このとき11歳。生まれたときに母親を亡くし、養育は京都生まれで大奥育ちの竹姫の手に委ねられることになります。
重豪公は、竹姫の影響をつよく受けていると言われています。
posted by ぶらかご.com at 00:40| Comment(0) | 薩藩の統治制度 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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