2013年04月18日

第25代島津重豪公

京都生まれで大奥育ちの竹姫は、徳川家と島津家との血縁関係が末永く続くことを望んでいました。
宝暦12年(1762)、竹姫は義理の弟である一橋宗尹(むねただ)の娘、保姫(やすひめ)を重豪公の夫人に迎えました。
保姫は、明和6(1769)年に病死し、竹姫もまた安永元年(1772)に病死してしまいます。

先々を憂えた竹姫は、身ごもっていた重豪公の側室が女の子を産んだならば、徳川家に嫁がせるようにと遺言を残しました。
遺言は実現し、一橋治済(はるさだ)の嫡男、豊千代(とよちよ)と重豪の娘茂姫(しげひめ)との婚約が成立しました。
婚約成立は、一橋徳川家と島津家という大名家同士の縁組でした。

天明元年(1781)、豊千代が10代将軍家治(いえはる)の養子となったため、将軍家と島津家との縁組という意味になりました。
豊千代は一橋邸から江戸城西丸へ移り、「家斉(いえなり)」と改名。
天明7年には、11代将軍に就任しました。

将軍の御台所は、家光以後、皇族あるいは摂関家の娘と定められていました。
しかし、家治が家斉を養子に迎える際、竹姫の遺言を守るようにと遺言していました。
茂姫は一旦、近衛経熙(このえつねひろ)の養女となりました。
寛政元年(1789)、近衛家の娘として将軍家に輿入れすることができました。

島津重豪公は、将軍家斉の岳父(養父)となり、島津家の地位は飛躍的に向上することになりました。
幕府の方では、島津家を単なる外様大名として扱えなくなりました。
徳川家斉の治世は、50年におよび在職期間は歴代将軍のなかで最も長いものになりました。
この間、島津家は御台所の実家としての恩恵を受け続けることになります。

■ 重豪公の開化政策
重豪が成人すると、薩摩の無骨な風俗を嫌い、言語・風俗を上方風に改めさせようとし、また文化向上をはかって開化政策を進めます。
城下繁栄のため、他国町民の入国を自由にし、永住や縁組なども許可するというものでした。

明和9(1772)年に出された通達には、次のようなものがありました。
@ 町家の繁栄は、商人がたくさん集まることから賑やかになるのである。今後、城下に他国商人が入り込   み、永住や縁組を希望する場合は望みにまかせる。上方や他国から奉公人を雇い入れることも許す。
  ただし、奉公人を抱えることは町人に限らず、何人も勝手次第に許す。

A町家の者は現在も上方や長崎に出かけているが、今後も他国に出ることは自由で、伊勢神宮なども差し障り のない限り許す。

翌年4月にも、次のようなお達しが出されました。
B薩摩藩領内のどこの温泉にでも、他国者がやってくることは構わない。
C諸事指南のために他国の女でもやってきて構わない。
D鹿児島で花火の打ち上げ、舟遊び等することも勝手次第である。ただし異様なことはやってはいけない。
などなど。

重豪公は、領内の繁栄をはかるため「繁栄方(はんえいほう)」という新たな役職を設けました。
徹底した開化政策と規制緩和をおこないました。
また、重豪公は明時館(天文館)や演武館、藩校造士館などハコモノもたくさん造りました。
『成形図説』や『質問本草』、『琉客談記』など数多くの書籍を編纂・刊行しました。

明時館(天文館)は、安永8年に創設されたもので、ここでは渾天儀(こんてんぎ)・枢星鏡(すうせいきょう)・ゾンガラス(サングラス)などを使って天体観測が行われました。
そこから薩摩独自の「薩摩暦」を作成しました。

重豪公は、蘭癖(らんぺき)大名といわれるほど中国や西欧の文化に強い関心を示し、歴代オランダ商館長とも親交を結んでいました。
重豪公の開化政策は、国内だけでなく中国や西欧の文化・科学技術を取り入れたものであったようです。

しかし、重豪公の開化政策は相当の出費を伴いました。
藩の財政は木曽川治水工事で大きな打撃を受けたうえ、江戸藩邸の焼失や桜島大爆発の被害、風水害などで悪化の一途をたどっていました。
そこに重豪公の開化政策は、そうとう影響をもたらしました。

従来、島津家は主に家臣団と血縁関係を結んでいました。
重豪公は子供たちを、将軍家や公家、大名家を中心に婿養子や嫁入りさせるようになりました。
このことも、交際費の増加につながり藩財政悪化の一因となっていました。

■ 近思録くずれ
重豪公は、娘の茂姫が11代将軍家斉の御台所となったのを機に隠居し、家督を長男の斉宣(なりのぶ)にゆずりました。

斉宣公は、財政逼迫から重豪公の政策に批判的な態度を強め、文化4年(1807)に樺山主税(かばやまちから)・秩父太郎などの近思録派を抜擢しました。
造士館の改革や諸役所の廃止・統合、人員整理を行いましたが、その多くは重豪公が新しくつくったものでありました。

改革の内容を知った重豪公は、烈火のごとく怒り、文化5年に自ら改革の首謀者らを粛清しました。
樺山、秩父ら近思録派の首脳13人を切腹、100人あまりが遠島・寺入・御役御免などの処分を下しました。
文化6年には斉宣公も隠居を命じ、嫡男斉興(なりおき)公に家督を譲りました。
この一連の事件を「文化朋党事件」、「秩父崩れ」、「近思録崩れ」と呼んでいます。

この事件を機に重豪公は、斉興公の後見役として再び藩政に関与していきました。
緊縮財政を命じたり、唐物(からもの)貿易の拡大を願い出るなど改革を打ち出しますが、財政は好転しませんでした。

借金返済は滞り、とうとう高利貸に依存せざるをえない状況に追い込まれてしまいました。
負債は増え続け、文政12年にはついに500万両に達しました。
文化12年ごろの通達に、ここ3年間の平均産物料収入が14万両とあるので、負債がいかに大きなものであったがわかるかとおもいます。

重豪公の財政改革が行き詰まりを見せた頃、唐物貿易で利益をあげていたのが、御続料掛(おつづきりょうかかり)調所広郷でした。
調所は、城下士最下級の御小姓与(おこしょうぐみ)の出でしたが、重豪つきの茶道坊主や御小納戸(おこなんど)などを歴任したのち、御続料掛に任じられていました。

調所もまた、その後の薩摩に多大な影響をあたえることになります。
次回は、調所広郷についてみてみます。


 
posted by ぶらかご.com at 23:25| Comment(0) | 薩藩の統治制度 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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