2013年04月21日

調所笑左衛門広郷

両御隠居御続料掛(おつづきりょうかかり)は、重豪公と斉宣公の生活費掛りとして「琉球産物方(ほう)」という重要な財政上の役目を負っていました。
御続料掛となった調所は唐物貿易で利益をあげていました。
その手腕に期待した重豪公は文政11年、調所に財政改革を任せました。

■ 調所の財政改革
調所は大坂に出向き、商人たちに当座の資金融資を依頼しますが、これに応じる者は殆どいませんでした。
当時の財政状況は深刻なもので、江戸藩邸の手入れはおろか江戸詰めの藩士達は13ヶ月も手当てをもらえず、国許の財産を売って自弁当という体たらくでした。
人夫賃も払えず、買入物の掛けが山のように貯まっているため、商人が出入りしない有様でした。
借金500万両の金利を低利の7%にしても、年利35万両。
当時、大坂での国産売上高は12,3万両でしたから、利子さえも払えない状況でした。

しかし、ここに出雲屋彦兵衛という商人が現れ、調所の忠実に同情し、平野屋彦兵衛ら5人とともに新組の出資者となりました。
調所は彼らに確かな財政計画と保証をし、ことに出雲屋には破格の待遇を与えました。
奄美産黒糖700万斤のうち、100万斤の益金をやるようにしていました。

当座の資金調達に成功し、調所の改革派順調に進んでいきました。
そこで重豪公は、次に掲げる三大目標を調所に命じました。
@天保2年から11年までの10年間に、50万両の積立金をつくること。
A平時ならびに非常時の手当金もなるだけ貯えること。
B古借証文を取り返すこと。
その後の調所の働きは、刀を算盤にもちかえ財政改革にまい進していきます。
調所の部下に起用された者は数百人もあり、一人として中途で辞めさせられた者はいなかったそうです。
そこには、調所がよく人を見る眼識があったからであるといわれています。

調所の政策
財政改革には節約と開発の両面があり、調所の改革の主目的は国産品の品質向上と貿易の拡大による収入増であったようです。
1)国産品販売向上
薩摩の特産品は、米・生蠟・朱粉・砂糖・ウコン・薬用植物などでした。
調所は、これら国産品の品質向上や出荷方法の改善を行って利益を生み出しました。
『倭文麻環』にも記述がありますが、当時薩摩の米は大坂で評判がよくなかったようです。
調整作業や俵作りなどが悪く、食用としての米ではなく、菓子などの加工用としての評価だったようです。

調所は米こしらえ・とり納め・俵作りなどを改善させたことで、市場での評価が上がり価格も向上しました。
また、砂糖や薬用植物などの品質管理も徹底させたところ、莫大な利益を生むようになりました。
砂糖に関しては、奄美大島や喜界島などに過酷すぎるほどの収奪が行われることになります。

物産の開発には、有能な商人を抜擢して事業にあたらせていました。
また、先進地から優秀な技術者を招聘したり、諸国の物産開発の情報にも敏感に反応していたようです。

2)節約・簡素化
冗費節約の第一は「御作事方」の費用で、藩支出の半分以上にあたっていました。
調所は営繕の手続きを簡略化し、材木その他の材料を直接購入ししたため工事費が安くなりました。
そのため、諸郷の御仮屋、御休場、堂社、道路、橋梁、河川の整備が整いました。
以前あった、甲突川五石橋や祇園洲の築地、天保山台場、出水・国分の新田、川内川上流と甲突川の大改修などを調所がおこなっています。
鹿児島の産業基盤の整備は、おおかたこの頃に行われました。
調所の改革は、単なる経費節減ではなく、合理的な投資でもあったいえるようです。

3)支出削減
500万両に達した負債を250年で返却する。しかも元金だけで利息なしという償還法を天保7年に京都・大坂・江戸で実施します。
借用証文はすべて藩があずかり、債権者たちには借入高を記した通帳を渡しました。
一方的な償還法の変更で打撃を受けた商人たちは、幕府に訴えました。
しかし、調所は事前に幕府に10万両を上納するなどの裏工作を行い、幕府の手を封じ込めていました。

こうした調所の改革によって、薩摩藩は富強の藩へと生まれ変わり、弘化元年(1844)には目標の50万両備蓄を達成することができました。
藩主島津斉興の調所に対する信頼は絶大で、天保9年には家老に抜擢し藩政全般に関与させました。

■ 改革の成功と反動
調所の財政改革は成功しましたが、農政や軍政の改革に着手すると非難の矢面に立たされることになりました。

これまで心付蔵方(こころづけくらほう)という、家老座以下の書役を七年勤続すれば、それに対して蔵役の職を与えていました。
蔵役をすれば大変な役得があるので、この株は高値で売買されるものでもありました。
しかし百章には大迷惑、武士階級には得になるものでした。
とくに下級武士の生計のもとになっていたため、この悪習の廃止は城下下級士が困惑し、怒りの矛先を調所に向けるのも無理からぬことでした。

また調所は、軍制改革にも着手しました。
従来の兵法から、弓よりも鉄砲を主体にしたため、それぞれの師範家と門人たちは失望してしまいました。
見慣れぬ帽子や筒袖、ズボンをつけ聞きなれぬ鼓笛と号令で動く洋式訓練は、藩内に大変な物議を起しました。

24年間におよぶ調所の改革は、城下士階級の生活の基盤を根底から崩すような農政・軍制改革を行ったため、批判の矢面に立たされることになりました。

嘉永元年(1848)、調所は急死します。
一説には、斉彬の藩主就任を望んでいた阿部正弘が、薩摩藩の密貿易を追及して斉興を隠居に追い込もうとし、調所がこれを拒むために密貿易の責任を一身に負って服毒したのだと言われています。
斉興公は、調所の死によって打撃を受けますが、その後も藩主の地位を保ち、調所に近い家老島津将曹らが藩の実権をにぎりつづけました。











posted by ぶらかご.com at 00:05| Comment(0) | 薩藩の統治制度 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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