2013年05月25日

新屋敷町周辺をぶら歩き

江戸時代、城下町の整備が進むとともに、城下に居住する家臣団も増えてきました。
鹿児島の城下は、南へ南へと広がっていきました。
現在の樋之口町、かつては田んぼでありましたが武士の居住地となりました。
そして居住地はさらに南へと広がり、新屋敷という武家屋敷ができ武之橋まで屋敷がつづいていました。

樋之口や新屋敷の土地は低かったようで、甲突川の氾濫によって水があふれるという被害をこうむっていたようです。
『鹿児島のおいたち』によると、岩永三五郎による甲突川五石橋架設と浚渫によって洪水による出水がなくなったようです。

甲突川の川浚えを怠ったのか、明治年間になると鷹師、西田町と川下の塩屋、新屋敷、樋之口町は梅雨や暴風雨になると、毎年のように浸水がありました。
明治44年9月21日の大暴風雨の被害では、上記の町のほか床上浸水がおよそ600棟、床下浸水が2200以上もありました。
大正時代まで、西田本通や新照院では洪水に供えるため、家の軒下に船が吊るされていたそうです。

■ 戦後の新屋敷町周辺
『鹿児島市戦災復興誌』に、「鹿児島市戦災焼失区域図」という空襲被害を表した図が掲載されています。
空襲被害を受け、焼失したところは赤で塗られています。
清水町から新屋敷周辺、西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)周辺、天文館、加治屋町周辺のほとんどが赤で塗られています。

同書には空襲後の写真も掲載されており、鉄筋コンクリートの建物はかろうじて残っていますが、その周りに建物は殆ど残っていません。
おそらく、焼夷弾などによって木造住宅はことごとく焼き払われたのだと思われます。
鹿児島市戦災焼失区域図で赤で塗られたところは、木造住宅が密集したところとも考えら、空襲の凄まじさを思わせます。

■ 戦後の復興と都市計画
大正8年(1919)、都市計画法が制定され、鹿児島市も大正12年に法の適用を受けました。
昭和10年には都市計画大綱が完成して、実施されるだけでしたが、経費難や戦時体制に入ったため事業は行われませんでした。
都市計画の実施は、終戦後に行われることになりました。
これによって、藩政時代からの小路や区画、街道筋などがなくなってしまいました。

■ 甲突橋
戦災復興事業として昭和24年、木造の甲突橋が架けられました。
当時、甲突橋は西鹿児島駅から旧中央市場(鹿児島港)を結ぶ「西駅本通り線」に架けられた橋でした。
幅員6メートル、延長50.2メートルの8スパンの木橋でした。
『鹿児島市戦災復興誌』には、木橋時代の甲突橋の写真が掲載されています。

西駅本通り線が新設の幹線道路だったため、橋の名前を市民から公募し「甲突橋」と命名されたそうです。
甲突橋は、昭和33年に鋼板桁鉄筋コンクリート橋に架け替えられました。

■ もしかしたら、官公庁の町になっていたかもしれない新屋敷
『鹿児島市戦災復興誌』によると、「当初の計画では新屋敷広場周辺に官公庁を集中させるものであったので、ここを中心に街路計画も立案された」とあります。

新屋敷は現在のパース通り、城南通り、谷山街道線、西駅本通線、海岸通り、大門口通りを含め大型街路が縦横に走るなど、中心になる要素を兼ね備えていると考えられていたようです。

s28map2.jpg

掲載した地図は、昭和28年頃のものです。
甲突橋を市警察方向へわたると丸い円が描かれていますが、これはロータリーになっていました。
『鹿児島市戦災復興誌』には新屋敷ロータリーと題した写真が掲載されています。
当時はまだ、車が少なかったためかロータリーでよかったのかもしれません。

写真ではロータリーの真ん中を市電が走っています。
ロータリーの道幅は広く、50メートルもありました。
現在の新屋敷の交差点は、かなり広いですが、そこには官公庁を集中させ中心にするという計画があったのでした。


数年前、南日本放送の「ふるさと エリアアーカイブス」という番組で、昭和30年代頃の新屋敷ロータリーの映像が出ていましたよ。






posted by ぶらかご.com at 23:29| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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