2013年05月30日

旧西鹿児島駅周辺

鹿児島中央駅とその周辺は、西駅時代とくらべると大変な変わり様です。
中央駅とその周辺が商業地となったのは、それほど遠い昔のことではいようです。

T2map1.jpg

上に示した地図は大正2年ごろのもので、現在の共研公園から中央駅方面を表しています。
まだ鉄道が走っておらず、周辺は田畑であったようです。
現在の中央駅周辺が住宅地となるのは、大正2年に「武駅」が出来てからだそうです。
『鹿児島のおいたち』には、鹿児島の風景について次のように記しています。

「当時の市の農村部は塩屋村・西田村・荒田村が中心で、甲突川南部によって占められており、甲突川南部の市街は、武之橋方面では谷山街道に沿うて荒田八幡のあたりまで、それより鴨池あたりまでは、散在的に部落があり、高麗町本通では、西側を主とし、現甲南高校あたりまで、西田方面えは、西田本通に沿うて山麓の常盤町まで街村的に家があった。

また鷹師町は家が並んでいたが、薬師町は極く一部に住宅があったにすぎない。それより北は永吉町・原良町・薬師町と広い田地が広がるだけで、西田町から玉里邸・玉江橋まで、目をさえぎる一軒の農家もたっていなかった。
また西田町から現在の郡元小学校までも、田地つづきであった。
ただ武岡・原良・永吉の山麓に1,2列人家が散在していた。」

「藩政時代とさして変わることなく、広い田地がただ広がっていた」


地図は、大正15年ごろのものです。
T13map1.jpg

『鹿児島のおいたち』によると、「西鹿児島駅は当時武駅と呼ばれ、武町の田圃の真っ只中に建ち、駅前の現広場附近には鮒釣りのできる広い池などがあった」とあります。
周辺の田畑は埋め立てられ宅地や学校が建ち、駅を中心として急速に人口が増えていきました。

■ 終戦後の中央駅周辺
『鹿児島市戦災復興誌』掲載の「鹿児島市戦災焼失区域図」によると、西駅周辺は赤く塗りつぶされており、すっかり焼き払われてしまったようです。
戦争体験記などを読むと、西駅から桜島の姿がよく見えたそうですから、一面焼け野原だったと思われます。

『鹿児島のおいたち』には、戦後の商業地の様子を次のように記しています。
「従来の天文館通りや、山形屋附近等の商業区の外に戦後の新商業区が生まれた。戦後の自由市場から発展した鹿児島駅に至る六日、小川、易居町の一帯、西鹿児島駅南のいわゆる朝市、納屋通り、それに高見馬場、騎射場、栄町などの市場区などがあげられよう。」

昭和の鹿児島―写真で甦る、あの頃の記憶』という写真集は、終戦直後からの貴重な写真を掲載しています。当時の人々の暮らしに焦点を当てているようです。

写真集の始めの方に、昭和29年の朝市の風景写真が掲載されています。
朝市は相当な数の人で賑わっていますが、終戦から10年も経たぬうちに電器店や食堂、パチンコ店などの建物が建っています。
商業からみれば、戦後の復興は想像以上に早かったのかもしれません。
昭和30年発行の『鹿児島市政だより』にも、「あれから10年」と題して感慨深げに記事を掲載しています。

写真集本文に、次のような説明がありました。
「生きるために、人々は集まった。戦後始まった西鹿児島駅の闇市は、昭和30年代に入ると、名称を朝市とした。その後は自由市場の様相を呈し、売り手と買い手が値踏みする風景も見られた。白い前掛け姿が、忙しく行き来する。ござを敷いただけの地べたで、スイカや卵が宝物のように見える。まさに生きるための市場が、ここに大きく広がっていた。」

闇市から始まった朝市は、自由市場から組合制へと移行していきました。
そして組合員は近くに土地を借りて、朝市を運営するようになって行きました。

『鹿児島市誌U』経済編によれば、昭和31年7月1日の市統計係調査で、鹿児島市には6685ものお店が経営されていました。
その筆頭が武町で681店もあり、2位の山之口町393店の倍近くありました。
そうして、次のように分析しています。

「これら商店の分布は、武町の681店が他町に比して目立ち、西鹿児島駅の本駅化にともなって、その周辺に発達したものである。これは東千石町、金生町などの経営規模の大きな商店に比べて、零細商店の多いことを証明している。
しかし、西鹿児島駅が鹿児島本線・日豊線・指宿線の始発駅に変わってから、その周辺の発展は年とともに目ざましいものがある」

その発展は、鹿児島中央駅と名を変えて以降も続いているようです。









posted by ぶらかご.com at 00:40| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: