2013年06月12日

藩政時代の西田町

■ 西田橋楼門
鶴丸城から千石馬場を通り、甲月川まで来ると門番がいた楼門が建っていました。
楼門は現在、石橋記念公園に復元されています。

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案内板を見ると、この楼門の復元に当たって、当時のものを復元するため相当こだわって造られたようです。
下に、天保末頃の図を載せてみました。

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図によると、楼門のすぐ傍には門番が詰めていた屋敷があったようで「番所小路」とよばれる道があったようです。

■ 西田橋
楼門をくぐると西田橋を渡るのですが、天保年間城下絵図によると木橋だったようです。
『鹿児島城下絵図散歩』は、安政年間頃作成された絵図ですが、石橋が描かれています。
石橋の西田橋は、今から20年ほど前まで使われていましたが、現在は石橋記念公園にてゆっくり過ごしています。

nisidabasi4.jpg

西田橋は、肥後の石工岩永三五郎によって造られました。
この橋は、参勤交代の道、出水筋の表玄関にあたると考えられたため、もっとも重要視されて設計・計画され、弘化3(1846)年9月に完成しました。

幅8メートル、長さ54メートルで迫石を二重にし、そこに接続する壁体部分もアーチ式に組まれており、極めて堅固に造られていました。
そのために、八六水害に耐え、平成の世まで現役の橋として全うできたのだと思われます。

西田橋が石橋に変わる前から、青銅の擬宝珠がつけられていたそうです。
豪華な装飾が施された橋が城下にもうひとつありました。
潮浸壕に架かっていた「新橋」に、褐銅の護朽(ぎぼうし)がありました。
潮浸壕は、現在の交流センターと長田中学校の間を流れていた堀で、下流部は昭和初め頃まで残っていたようです。
新橋は、交流センターと農政事務所辺りに架かっていたようです。

■ 西田町
西田橋を渡りきると、後に西田本通と呼ばれる直線の広い道が、現常磐町に向けて走っていました。
広い道の両端には、水路が流れ、町屋が軒を連ねていました。
この町屋のひとつから、銘菓春駒を生み出した人物も現れました。

西田村について、『三国名勝図会』で次のように記述しています。
「城市接界の所にして、橋東に郭門あり、橋西に市坊あり、西田町と呼ぶ。出水の関門より、大道これに達し、都城(とじょう)の門口なれば、自他の往来絡繹として絶えず。有を商い無を求め、縦横に蟻の如く集まる。・・・」

当時、西田町は商売人や客、通行人でごった返していたようです。
また、島津重豪公の開化政策によって、安永2年の八月ごろから西田町で歌舞伎興業が始められたようです。
当時、歌舞伎は上築地・西田町・南林寺・大門口で行われ、「繁栄方」という役目の者が管理していました。
しかし、芝居茶屋などができてから、武士の風儀が惰弱に流れてきたので、恭謹質朴を守るようにという達しも出ていたようです。

■ 西田町の町名
城下絵図には、「西田町都合三町」と書かれていますが、町名がはっきりしません。
『西田町のあゆみ』という本に、「はじめ上・中・下の三町であったのが、いつの頃からか東・中・西の三町に呼び名が変わったのであろう」とあります。

西田町には、「会所」と呼ばれる町奉行を補佐する事務処理をする屋敷がありました。
上に示した地図にも、「会所」と書かれたところが、西田町のものはそこにあったようです。
会所には、火の見櫓が敷設され警察事務や消防のことなども行っていました。

【 町の統治 】
城下三町は町奉行の統治下に属し、その下に町人から任命される「惣年寄・年寄・年寄格・年行司・年行司格・十人役・乙名頭・横目」などの町役がありました。

町奉行のもとに三町惣年寄がいて奉行を補佐し、ことあるときは下町会所で事務処理をしました。
会所は各町にあり、かねて町年寄が主として警察事務や使者の接待などを行いました。

年寄・年行司は町長・助役のようなもので、在役中はもちろん退役後も、長さ1尺8寸以内の脇差を持つ事を許されていました。
十人役・乙名役・横目などは各町にいて諸事見聞役を勤めいて、1尺3寸位の脇差諸事を許されていました。
また、平町人と区別され、多少の優遇を受けていたようです。

■ 西田町の武家屋敷
西田通の商家は、両側とも狭い区域にありました。
上に示した地図をみると、西田本通右側の商家の背後に鷹師・薬師の武家屋敷が並んでいました。
その武家屋敷からさらに北は、原良の田んぼへと続いていました。

上に示した図では、鷹師附近、「此辺足軽地」とありますが、安政年間の絵図になると一区画180坪ほどの宅地が並んでいます。
薬師には比較的大身の武家屋敷があったようです。

上に示した図で、西田本通左手、商家の裏にも武家屋敷が建ち並んでいたようです。
天保末年の城下絵図には、武家屋敷の南側から、広い田んぼになっており「鴨堀」と書かれた堀も描かれています。
絵図から考えるに、この武家屋敷の南側から現在の中央駅周辺までの広い範囲は、田んぼであったようです。
また、大小さまざまな河川が流れていますが、残念ながら名前が書かれていません。
できれば、河川の名前も調べてみようと思っています。







posted by 山川かんきつ at 23:57| Comment(2) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
鹿児島市に、西田橋の門は「楼門」ではないのではないかと問い合わせたところ、以下の回答を得ました。

鹿児島県土木部編『西田橋移設復元工事報告書』によりますと、ご指摘のとおり「楼門」ではなく「薬医門」の形式であり、表記は「西田橋御門」または「御門」となっていました。
鹿児島市のHPや書籍における表記につきましても、「西田橋御門」または「御門」への統一や、正誤表への追記修正を行ってまいりたいと考えております。

小京都と呼ばれるような街には神社仏閣の立派な楼門がありますが、鹿児島城下では楼門は禁止されていたのでしょうか?
Posted by 望月正道 at 2024年07月14日 15:56


>望月正道さん
>
>鹿児島市に、西田橋の門は「楼門」ではないのではないかと問い合わせたところ、以下の回答を得ました。
>
>鹿児島県土木部編『西田橋移設復元工事報告書』によりますと、ご指摘のとおり「楼門」ではなく「薬医門」の形式であり、表記は「西田橋御門」または「御門」となっていました。
>鹿児島市のHPや書籍における表記につきましても、「西田橋御門」または「御門」への統一や、正誤表への追記修正を行ってまいりたいと考えております。
>
>小京都と呼ばれるような街には神社仏閣の立派な楼門がありますが、鹿児島城下では楼門は禁止されていたのでしょうか?

西田橋の件、ご確認いただきまして、ありがとうございます。
10年以上も前に書いた記事です。記憶が曖昧です。

お詫びを申し上げなければなりません。
筆者は今、昭和の15年戦争に関心と興味を寄せています。
とくに、鹿児島市が受けた空襲について調べているところです。

鹿児島市史と鹿児島市戦災復興誌にある空襲に関する記述は、大幅に書き替える必要があります。単なる修正ではありません。

こうしたことから、お問い合わせいただいた「楼門の件」にお答えするのが難しいところです。
申し訳ありません。

Posted by 山川かんきつ at 2024年07月17日 06:58
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