2013年06月24日

原良町その2 

■ 城西公園から原良町へ
『古地図に見る鹿児島の町』という本に、「薬師公園の一角に小堂があり、その由来に昭和3年薬師町前原宅の石榴(ざくろ)の木の下から掘り出された薬師様を祭ってあると書いてあるが、薬草苑にあった薬師如来なのだろうか」と記述があります。

西田町の方から薬師公園を探してみますが、なかなか見つからないため原良町方面へ歩いていると、大きな公園に小堂が目に入ってきました。薬師堂でした。

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由来書を読んでみると、先の本の記述どおりでした。
薬師公園ではなく、城西公園でいつしか公園の名前は変わってしまったようです。

■ 原良町TSUTAYA周辺
城西公園前の交差点、現在TSUTAYAのところには「日本澱粉工業株式会社」の工場がありました。
この会社は、もともと昭和11年に住吉町で飴を作る会社として創業され、昭和20年12月に原良に移ってきました。

この工場では、主に県内で生産されたサツマイモから澱粉を作り、それを加工してブドウ糖や水あめ、春雨などを作っていました。
昭和47年、谷山の二号用地へ移転しました。

日本澱粉ができる前は、薩摩製糸の工場がありました。
この工場は大正8年(1919)に造られたもので、太平洋戦争の頃になると片倉製糸とともに、飛行機のエンジンを作っていたそうです。
この工場の敷地は広く、戦後になると敷地内に城西通りが走るようになりました。

城西通りができたために、TSUTAYA前と通りを挟んだ、エイルマンションや郵便局一帯の土地が分割されてしまいました。
「城西通り」の名前が付けられたのは、昭和30年11月で一般公募で決められました。
ちなみに、城西通りの起点は中洲通りで、終点は西警察所前まででした。

■ 原良川
現TSUTAYAから「かけごし」を目指します。
路線バスも通る大きな通りには、かつて原良川という川の流れがありました。
川の左岸には桜、右岸にはしだれ柳が植わっていたそうです。

原良、永吉、武岡団地から交通量が多くなり、交通渋滞解消の要望が大きくなりました。
昭和49年度から5ヵ年計画で、「かけごし」から新上橋までの約1キロメートルをコンクリート四面張りに改良して、道路となりました。

■ かけごし
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「かけごし」は、石井手用水と原良川とが出合うところで、ここから、一方は西田常盤方面へ、他は新上橋方面へ水を通していました。

「かけごし」の名前は、石井手用水と原良川の水がお互いに掛け合って、ここを越えて流れていたため呼ばれたものだそうです。
かつて、ここには水門があって川の水の量を調節していました。

昭和42年ごろまでは、原良山手の川水が”かけ越え”されていた石の水路を見ることができたそうですが、昭和50年の道路工事のため取り壊されてしまいました。


■ 石井手用水

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石井手用水は、永吉・原良に通ずる山手の水路をさしていました。
1810年(文化7)、甲突川の上流、伊敷村飯山橋の上手に石堰(いしいで)を設け川水をたたえ、水を小野、永吉、原良、西田、武を経て荒田村まで引いていました。
これによって、当時200町歩(約1983.4平方メートル)の水田に利用されたそうです。

石井手用水を造る際、シラス地のため赤粘土とつき混ぜたり、石畳を敷くなどして水漏れを防ぎました。
また、勾配や地形の関係から刳りぬきのトンネルを三箇所ほど作りました。
永吉町に、そのひとつが残されていました。

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現在は、アスファルトで塞がれてしまい、太鼓橋のアーチ部分が分かる程度となってしまいました。
石井手用水の工事は、クワ一本の手掘りで造られ完成には大変な苦労があったそうです。
工事には、地元だけでなく吉野方面からも夫役に駆り出されようです。

また、「みぞ浚え」の際も同様で、浚った砂は現在の永吉公民館附近や「かけごし」に集められ、山のように積み上げられていたそうです。
それらの砂は、のちに道路補修に使われたそうです。










posted by ぶらかご.com at 23:48| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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