日枝神社前から変電所を過ぎると、「花岡屋敷バス停」が出てきます。

■ 花岡屋敷
ここには、鹿屋花岡の殿様であった島津久誠(ひさもと)という人の別荘がありました。
久誠の孫、久実(ひさざね)は詩歌に優れていたそうです。
また、照国神社や鶴嶺(つるみね)神社の宮司などもつとめた人物でありました。
久実の妻サエさんは、1896(明治29)年に鶴嶺高女という学校を造り、その初代校長になりました。
久実の長男久基(ひさもと)は、国文学者として国内に知れ渡った人物だったそうです。
花岡屋敷に糸桜が植えられ、「近衛桜(このえざくら)」と呼ばれていました。
糸桜は、「しだれ桜」の別名です。
名前の由来として、近衛関白信輔(のぶすけ)という人が、庭に植えていた梅の花と同じ種類の糸桜だったからだそうです。(『郷土はらら』)
近衛信輔は、文禄と慶長年間に鹿児島に来たことがあることから、近衛の名はこの人物をさすようです。
またここには、高さ12メートルから15メートルぐらいの大きな木が植わっていました。
庭いっぱいに茂り、春になると美しい花を咲かせ人々の目を楽しませていたそうです。
明治の中ごろ、木は枯れてしまいましたが、同じ種類の糸桜を植えたことが記録に残されているそうです。
■ 知覧屋敷跡
永吉公民館の十字路から、左手に入り、三叉路を右手に入った辺りに「知覧屋敷」がありました。
知覧の殿様の米蔵があったところで、「知覧仮屋」または「蔵屋敷」とも呼んでいました。
かつて、この辺りの小字を「蔵屋敷」と呼んでいたそうです。
むかし、この一帯は段々畑になっており、畑の中腹に武家の住宅があったそうです。
この辺りには深い井戸が幾つも残っていたそうです。
■ 水車館(すいしゃやかた)
永吉公民館から旧石井手用水に沿って進むと、左手に太鼓橋がほんの少し残されています。

太鼓橋を過ぎて玉江橋西口交差点に、「水車館機織場跡」という石碑が建っています。
石碑は昭和15年に立てられたものだそうです。

安政年間(1854〜1859)の頃、長崎の青木休七郎(あおききゅうしちろう)という人が、紡績機械を輸入しました。
しかし、幕府はこれによって民間の手織物業が抑えられるのをおそれて、許可しませんでした。
困った青木は、薩摩の殿様、島津斉彬公に買い上げてもらうことができました。
斉彬公は、藩の船舶5300余の帆布(ほぬの)を自給するため、田上村と永吉村に水力機織場(水車館)をつくりました。
そこに機械をすえつけ、河内国から技術者を招いて帆布だけでなく、他の布類も作らせたそうです。
斉彬公は、たびたび水車館を訪れては機械の改良や設備の改善に苦心したそうです。
その甲斐あってか、大坂で買うよりも藩製品の方が三割ほど安くついたということです。
水車は、石井手用水の水を利用していました。
石井手用水流域の耕作で水不足の際は、水車は止められたそうです。
水車館は斉彬公没後も続けられ、1867年5月、磯に洋式紡績所が建てられるまで稼動していたようです。
田上と永吉にあった水車館は、幕末殖産興業のなかで大きな功績を残したといえるかもしれません。
■ 枦之木馬場(はいのきばば・はぜのきばば)
水車館を後にして、甲突川沿いに歩いてアリーナの方へ向かってみました。

地図によると、玉江橋とごこく橋の間に「はぜの木」と書かれています。
天保年間城下絵図に「枦之木馬場」とありますが、これのことと思われます。

「枦之木馬場」のハゼの木は、記録によると1810年〜1826年より前に植えられたようです。
道の両側に三間(約5.5メートル)おきに、植えられていたそうです。
昔、ロウソクをつくる原料として「ハゼの木の実」を使っていました。
薩摩において、ハゼの木の栽培は寛永年間(1630〜2640)の頃から行われていたようです。
1680年〜1700年の頃に、祢寝清雄(ねじめきよお)という家老が、財政立て直しのために六十郷に栽培させました。
郷内のお百姓さんたちは、ハゼの栽培が義務付けられることになりました。
お百姓さんたちにとって、栽培・取り入れ上納が面倒なうえ、農繁期とも重なったことで大変な思いをしていたそうです。
薩摩のロウソクは質がよく、高価でありました。
おかげで、ロウソクの売り上げは薩摩産品のなかで、第五位を占めるほどでした。
ここのハゼの木の実は、1915(大正4)年頃まで北九州の商人が買い取りに来ていたそうです。