2013年07月22日

新照院町周辺をぶらぶら

平田公園から国道3号線に出て、伊敷方面に向かって歩くと「新上橋バス停」がでてきます。
この辺りから、新照院町となります。

■ 藩政時代の新照院町
藩政時代は、西田村に属していてました。
明治初め頃は、「新照院通町」と呼ばれていましたが、同32年から「新照院町」に改名されました。
藩政期頃、原良や尾畔(おぐろ)へ行くときは、新照院から新上橋を渡っていくものだったそうです。
当時、新照院から新上橋を渡ると、目の前には永吉の先まで田園風景が広がっていたようです。
三国名勝図会には、尾畔の田園風景を掲載しています。

■ 新上橋
新上橋は、弘化2(1845)年に岩永三五郎によって石橋に架け替えられました。
甲突川五石橋のうち、始めに石橋に架け替えられた橋でした。
新上橋の付近は、川幅も広く、橋の長さは四六・八メートル、幅は五メートルで、四つのアーチからできていました。
このほか、中央の二つのアーチの直径を両端のものよりも、一・三メートルほど大きくして流れをよくしていました。
岩永三五郎は洪水にそなえて周到な設計と技術の限りを尽くした橋を造りました。

平成5年8月の集中豪雨によって、四連のうち中央の二連アーチが流されてしまいました。
両岸に架かっていた二つのアーチは残りましたが、その後撤去されてしまいました。
玉江橋、西田橋、高麗橋は、石橋記念公園にて復元されています。
しかし、武之橋と新上橋について復元の目処は立っていないそうです。


■ 新照院の辺りは、往古、港であった
『草牟田校区史蹟集』(昭和9年)という本に、新照院の地形について次のような記述を載せています。

「新照院谷は、東南北は山で、西の一方が開け、連山に包まれて風波の患もなく、碇泊地として、恰好の港であったろう。古老の伝にも、明治十年役前の新照院町なる上井、内田家の邸外の崖及び其の下の道路の敷石は、往古の海岸で、其の下の児玉家、左々木家等の宅地は、波打際で、同地辺の敷石や築造石は、各国古代の港の面影に類似するものがある。」

「今の新上橋の東方は、山が突出した岬で、之を”潮岬”と言って居る。其の後此処は、烽火台が設けられたので、其の跡も残って居る。」

海が内陸まで入り込んでいた頃の地形を記述したものと思われますが、今その痕跡は全くないようです。
太平洋戦争中、現在の新上橋バス停近くの山は、シラスの切り立った崖であったそうです。
シラスの崖から照国神社横へ通ずる大規模なトンネル工事の計画があり、当時防空壕になっていたそうです。

昭和20年4月の空襲で、その防空壕に大勢の人々が避難していました。
防空壕入口が破壊され、大きな被害を被ったそうです。

終戦直後の昭和22年に撮影された「新上橋附近」の写真が、「鹿児島の100年」という写真集に掲載されています。
写真に依れば、新上橋附近の国道3号線と伊敷線が写されています。
また背景には、シラスの崖と四つの防空壕が撮影されています。

■ 池の平
明治初め頃まで、現新照院交差点を伊敷方面に行ったところに「池の平」と呼ばれるところがありました。
池の平は、低い湿地で所どころに沼もあったそうです。
池の平を通る人たちは、とても苦労していました。
そこで、ある藩士が山手にひとつの道を拓いたおかげで、とても便利になったそうです。
posted by ぶらかご.com at 22:58| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。