今回は、その著者毛利正直(もうりまさなお)についてすこし触れてみたいと思います。
■ おいたち
毛利正直は宝暦11(1761)年、鹿児島城下の加治屋町で生まれました。
下級武士の御小姓組(おこしょうぐみ)毛利正堅(もうりまさたか)の二男でありました。
毛利家の祖先、覚左衛門元房(かくざえもんもとふさ)は、因幡国の武士でしたが戦国時代末期に島津義弘の家臣となり、関ヶ原の戦で戦死してしまいました。
のち、元禄年間(1688年〜1704年)になると毛利家の正周(まさちか)は、池之坊流華道の伝授を受けました。
正周の子正治(まさはる)は上京して医学を学び、帰国後、藩の表医師・奥医師・御側医師などを勤めました。
正治の子、正堅が正直の父になります。
正直の父、正堅は郡奉行として藩庁に勤めていましたが、51歳で死んでしまいました。
このとき正直、6歳でありました。
残された家族は、母の実家からの援助や藩の”お救い米”で生活する毎日でした。
※「お救い米」は、生活に困っている藩士に与える援助米のこと。
幼い正直に影響を与えたのは、隣に住んでいた田代親常(たしろちかつね)という藩士でした。
親常は学問に優れ藩庁に仕えていましたが、友人に裏切られ罪人として大隅国百引郷(もびきごう)に流されました。
留守中、妻と子供を亡くしてしまいました。
罪を許されて鹿児島に帰ってきた親常は、二度と藩庁に仕えることなく、野山で山菜を摘み、窮士御救米で生活していました。
正直は安永2(1773)年に12歳で元服し、八代藩主重豪公(島津家25代当主)にお目見えします。
その後、兄正興(まさおき)家から独立し、御小姓組のひとりになると藩庁に仕えました。
屋久島蔵書役や鹿屋郷の締方(しまりかた・現警察官)になりました。
まもなく勤めをやめ、天明4(1784)年24歳のとき加治屋町の生家を出て、草牟田の池ノ平に移りました。
夏は団扇を張り、冬は”つげ櫛”を作って、手内職で生活し詩文に親しむという生活をおくりました。
正直は家庭的に恵まれず、最初の妻は長子正次郎が幼くして亡くなると去ってしまいました。
二人目の妻も幼児を残して去ってしまいました。
正直は享和3(1803)年に42歳で亡くなってしまいます。
七歳の息子正位(まさなり)を残したままのことでした。
■ 大石兵六夢物語
この物語は、江戸時代に多くの人々によって愛好され写本が作られました。
当時の青少年たちに、「虎狩」や「倭文麻環(しずのおだまき)」などと同様、暗記するほど親しまれ、教養ともなる物語でもあったようです。
今でも、郷土芸能として兵六踊を伝えている町村があります。
画像は、出水市高尾野の紫尾神社で奉納された、兵六踊のものです。
毛利正直が著した『大石兵六夢物語』は、大石兵六という向こう見ずな人(ボッケモン)が、吉野台地の狐を退治するという民話がベースにあるようです。
正直は、民話をベースにして安永・天明年間(1772年〜1789年)頃の鹿児島の世相を反映させているようです。
物語のなかで老狐や登場人物たちに、社会批判を語らせるなど風刺の要素が含まれているようです。
批判の対象は、無作法な田舎武士や金に抜け目のない町人、贅沢を好むもの、軟弱な若者、賄賂好きな役人、にせもの学者、堕落した僧侶などになります。
■ 正直の意図
物語の序文で書いた経緯と目的を述べています。
「これまでの大石兵六物語は、川上先生(実学を説いて処罰された川上親埤・かわかみちかます)が初めて書いたもので、当時は評判がよくて多くの人々に読まれていた。時代が移って話が合わなくなると、たくさんの兵六物語が書かれるが、中神怡顔斎・なかがみいがんさいの作品を除いては取り上げるほどのものはない。自分は公務で鹿屋郷に出張したとき、農家にあった兵六物語を読んで誤りが多いことに驚いた。誤りを知って改めないのは罪深いことだから、人々のために書き改めることにした。物語の筋や表面だけを読むのではなく、自分の本意を感じとってほしい」
署名と日付は、天明4(1784)年霜月猫の日、作者は薮原実房とぼかしています。
今と違い、為政者たちに批判を口にすることはできない時代でありました。
大石兵六物語は、その辺をうまくぼかしつつ、笑いと社会批判、風刺を織り交ぜている作品のようです。


2013年07月30日の『大石兵六夢物語』の著者 毛利正直のブログについて
毛利正直のおいたち詳しく調べられておられるのですが、もし可能であれば記入させて頂いたメールアドレス連絡頂くこと可能でしょうか?