2013年09月10日

武町の辺り 鹿児島市

■ 武村(田毛村)の領域
鹿児島中央駅西口の周辺、武町を歩いてみました。
武町、藩政時代は武村、もっと古くは田毛村と呼ばれていました。
『倭文麻環(しずのおだまき)』では、荒田村の田毛川河口に海の怪物が現れたとする記事が、挿絵つきで紹介されています。
田毛川は、甲突川のことを指すようです。

『三国名勝図会』などによると、藩政時代の武村の領域は相当広かったようです。
@建部神社、もとは武村のうち高麗町へ永正十七年(1520)に遷されたとあります。高麗町と上之園町も武村であったようです。

A武之橋は、武村にあったため武之橋の名がつけられたようです。
B今の甲南中の辺りや天保山町の北半分は、明治44年鹿児島市に合併されるまで西武田村の飛び地でありました。
C現在下荒田一丁目に、正建寺跡の石碑があります。三国名勝図会によると、「正健寺は武村の古い松林にあり」と記述しています。
D新屋敷町の船魂神社も、「船魂廟・武村船手にあり」とあります。
E南林寺の海近くにあった大門口弁財天廟も、「武村の海辺にある」あります。
F南林寺は、坂本村と武村の界に属する

こうしてみると、藩政時代の武村の領域は、相当広かったようです。坂本村もまた、同じであったようです。


■ 武町周辺
take10.jpg

上に示した地図は、明治30年ごろの武町周辺のものです。
地図左下あたりに、細い道と小さな四角が描かれています。
当時は建部神社下辺りから、田上方面に向かい道に沿って人家が並んでいたようです。

現鹿児島中央駅とその周辺は、住宅が密集していますが、当時は西田町まで見渡す限りの田地でありました。
『鹿児島のおいたち』にも、「当時はただ広い田地で」と記述しています。
その田地を潤していたのが、伊敷の堰から流れてきた石井手用水でした。
『鹿児島県地誌』によると、石井手用水を新田溝とし、次のように記述しています。
「上伊敷村字石井手より甲突川を引き、小野村永吉村西田村を経て、本村に至り、又荒田村に漑き、甲突川の下流に合す」

武村を通る道は、伊集院別往還と呼ばれていました。
西田村の境から武村の中央を過ぎ、南に向かって田上村の境に至る、長さ凡そ九町弐拾壱間、幅弐間でした。
この道は、伊集院駅と谷山駅に通じていました。
駅と言っても、ウマヤあるいは宿場のことで、人馬や舟などの発着地または中継地を指していました。

■ 明治頃、武村の人口
男618人(士族148人・平民236人)
女664人(士族165人・平民499人)
総計1282人でありました。
他に他出寄留67人と武村に寄留している者が14人あったようです。

平民の生業として、その殆どが農業を営んでいたようです。
なかには、牛馬の売買を生業とする者が5戸、商業を営む者が12戸あったそうです。

見渡す限りの武村の田地に、明治43年(1910)男子師範学校が建てられました。
この学校、元は名山小学校にあった師範学校のうち、男子部を武に移転したものでした。
名山小学校正門脇の石碑に、師範学校跡の名が書かれていたかと思います。







posted by ぶらかご.com at 23:53| Comment(0) | 鹿児島近在 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: