2013年09月12日

鹿児島中央駅西口周辺

■ 鹿児島中央駅西口周辺
西鹿児島駅が鹿児島中央駅と名を変えてから、西口周辺の変貌ぶりには驚かされます。
西駅時代の西口は、今とはうって変わって閑散としたところでしたが・・・。
藩政時代から大正時代ごろまで、この辺り一面、田畑が広がっていました。

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大正13年刊行の『鹿児島市史』によると、明治13年加納知事のときに「排水耕地整理事業」という土地改良事業が始まりました。
この事業が始まるまで、現中央駅周辺は、深牟田で稲の植え付けも出来ず、荒れ果てて穀物の育たない土地であったそうです。
事業に当たって、西武田村長が深牟田の所有者を説得して排水工事を行いました。
この工事で、使い物にならなかった深牟田は良田となり、所有者は大喜びであったそうです。

この排水工事は、「日本に於ける元祖」ということで、各地方から設計図案の注文を受けるほどでありました。
明治43年、現中央駅西口近くに鹿児島師範学校ができると、この後すこしずつ都市化が進んでいくことになります。

大正2年10月11日、川内線が鹿児島駅・東市来間が開通したことに伴い、「武駅(武停車場)」が置かれました。
『鹿児島のおいたち』では、武駅の風景を次のように記述しています。「当時の武駅は武町の田圃の真っ只中に建ち、駅前の現広場附近には鮒釣りのできる広い池などがあった」

武町の郷土史にも、「武駅の付近は水たまりが多く、稲も出来ない状態で、あしなどの水草が生えていた。鮒のいる池もあちこちあって、子供等は魚釣りを楽しんでいた」

西薩線敷設と武駅の誕生で、市街地と連絡できる道路開通の必要がでてきました。
そうして有川市長は、武停車場前面の地主と協議し、耕地整理によって道路敷設を行うことになりました。
耕地整理は師範学校を中心に行うこととなり、大正元年11月1日工事着手、大正2年3月に終了しました。

そこで竣工式が執り行われ、当日は県知事、市長、議員や地主など数百名が集まったそうです。
耕地整理組合委員長、児玉七之進という人が式辞を述べています。

「天正時代から三百三十年間は全く田畑として経営した此土地が、聖代の発展により此地が近き将来に於いて、市街地と変遷することは何人も想像しうるものにて、頗る有望の土地となりしは、実に破天荒の変遷である。」

その後、武町には工場がいくつも建ち並ぶようになりました。
それに伴い、宅地化も進んで行きました。
武駅が西鹿児島駅と名を変え、鹿児島の表玄関となっていくのは戦後のことになります。

■ 高見橋
高見橋は西薩線鉄道の着手と共に、鹿児島市の表玄関となるべき武停車場と市街地とを連絡するため、重要な交通線路として架設されました。

大正5年5月3日工事着手、同年11月23日に竣工。
長さ28間、幅3間半、橋脚5本立ての木橋でありました。
高見橋のすぐ近くには、市電の専用陸橋が架けられ、天文館方面と西鹿児島駅を連絡していました。
木製の高見橋がコンクリート製になったのは、昭和9年のことです。

高見橋脇にたたずむ女性像
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大久保利通像の反対側に、一体の女性像が立っています。
筆者はてっきり、大久保の奥さんの像とばかり思っていましたが、まったくの勘違いでした。
この像には、「母と子供の群像」という名が付けられていました。

説明板によると女性は母親で、「強さと厳しさを秘めながら優しく、子供たちを見守る母の姿」を表現しているのだそうです。彼女の視線の先には、子供たちがありました。

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母親像の視線の先、欄干に多数の子供たちのブロンズ像がありました。
子供の群像で、「子供たちが健やかでたくましく育つ姿」を表現しているそうです。











posted by ぶらかご.com at 23:46| Comment(0) | 鹿児島近在 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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