2014年04月25日

軍政部の陣容

■ 軍政部の役割
昭和20年10月6日、鹿児島市役所内に設置された地方軍政部は、市会の正副議長室・議員控室・助役室・収入役室・食堂を接収して使用を始めました。
軍政部の役割は、占領軍の出先機関として鹿児島県の政治・行政全般にわたって占領政策を浸透させることにありました。
対日軍事占領の主要任務は、「武装解除ならびに非軍国主義化」として表明されました。

武装解除は、非軍国主義化のための前提条件であり、非軍国主義化には「非軍事化と民主化」というふたつの側面を持っていました。
非軍事化には政治経済などから軍国主義を一掃すること、民主化には旧制度にかわる民主主義を導入するという意味が込められていました。
そうして、非軍事化と民主化を達成するための政策が実行されていきました。

〇 非軍事化のための政策
戦争指導者の逮捕、軍隊と秘密警察の解体、民間航空の禁止、超国家主義団体の解散、軍国主義者や超国家主義者の公職からの追放、軍国主義的教育制度の除去、軍事力の経済的な基礎の破壊など。

〇 民主化のための政策
宗教的信仰の自由、民主的政党の奨励、人種や政治上の見解を理由にした差別待遇の廃止、政治犯人の釈放、個人の自由と民権の保護など

鹿児島の軍政部から発信される指示は、それが形式的に勧告であっても極めて強い規制力をもっており、絶対的なものであったそうです。

■ 軍政部の機関
地方軍政部長官の下には副官がいて、下部機構として民間教育課・民間情報課・経済課・保健課・司法行政課・労政課に分けられていました。
軍人軍属約40人、日本人20人で構成されていたようです。

軍政部がまず取り組んだのが、鹿児島の実態をつかむことにありました。
軍政部は諮問機関として、鹿児島県に対して連絡委員会の結成を命じました。
昭和20年10月25日、拓植鹿児島県知事を委員長として、岩切鹿児島市長、坂口県会議長、武商工経済会代表、木下鹿児島日報社長、樋渡医師会代表、浅野七高館長が委員となり、鹿児島連絡委員会を結成しました。
その後、鹿児島連絡委員会は軍政部との連絡折衝に当たることになりました。

■ 軍政部の要求の一端
〇 電気電灯水道の確保
米軍関係者の宿舎には、早急に電気と電話、水道を確保しなければなりませんでした。
当時、資材は全くないところに、「三日間で電灯をつけろ」という命令が軍政部から下りました。
県警防犯課長大倉野政美さんは、小倉に飛んで九配資材倉庫から電線を調達しました。
また、市水道課の末野作太郎さんは、延岡の旭化成に駆けつけ水道消毒用の塩素を手に入れるという慌しさであったそうです。

〇 ダンスホール
山形屋は焼夷弾攻撃によって全館焼けてしまいましたが、終戦直後の幹部会議で「即時復興」を決断。
9月17日から一階売場に裸電球をつけて、戸板の上に商品をならべ営業を再開していました。
そこに県知事から、進駐軍用のダンスホールを設置して欲しいという要請を受けました。
きっぱり断っていましたが、ついにダンスホールを設置することになりました。

12月24日のクリスマスイブに店開き、県下第一号であったそうです。
場所は4階の大食堂跡で、焼けただれたコンクリートの床に400平方メートル以上の木造ホールを建設。
荒削りの板壁に宮崎から取り寄せた床板を並べただけの粗末なものであったそうです。
それでも建設費用は40万円、当時としては大金でありました。

ダンサーを募集すると、約40人が集まったそうです。
にわか仕込みのダンサーでしたが、開店初日から米兵で大繁盛しました。
ホールには缶ビールやチョコレート、コカ・コーラなどの売店も設けられ、赤や青の灯りは夜遅くまで消えなかったそうです。

山形屋にとって不本意な営業が4年も続いたそうです。
当時、米兵の気持ちを和らげるという効果はあったと思われます。

〇 沖ノ村遊郭
戦時中23軒あった楼のうち、16軒が焼け残りました。
500人以上いた娼妓は爆撃のたびに数が減り、終戦時にはひとりもいなくなったそうです。
米軍進駐で再度集まりましたが、以前にくらべ半減しておよそ230人ほどでした。
バラック建の楼が三軒もでき、異様な活況を帯びたそうです。

米軍側は、米兵の遊郭立ち入りを厳禁し、天保山橋とガスタンク脇に憲兵詰所を設けて監視していました。
真夜中、こっそり忍び込む不良米兵は後をたたず、楼主や娼妓に銃をむける者もあったそうです。

遊郭組合は、鹿児島署長らに徹夜警備を要請する始末でしたが、当時の警察に米兵を逮捕すること力は全くありませんでした。
楼主のなかには、身の危険を感じて廃業し、公娼制度廃止を主張するものもありました。
当時としては、かなり勇気のある行動でありました。

次回は、軍政部のもたらした功績に触れてみます。
posted by ぶらかご.com at 00:14| Comment(2) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは。市内在住のサンチョといいます。折りに触れ、読ませて頂いています。
ご存じかも知れませんが、米軍が山形屋より桜島方向を撮った写真(昭和45年10月)があります。
http://mansell.com/pow_resources/camplists/fukuoka/fuk_01_fukuoka/fukuoka_01/Recovery/Banks11.jpg
偶然に、私の父が昭和32年5月に撮ったほぼ同じ風景の写真もあります。
http://photozou.jp/photo/show/1416348/180053398
参考になれば、幸いです。
Posted by サンチョ at 2017年04月23日 09:32
すみません。昭和45年10月→昭和20年10月の間違いです。
Posted by サンチョ at 2017年04月23日 09:38
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