2014年05月26日

デパートと映画館の再開

映画館
1.騎射場の映画館「南映」
終戦後の娯楽は映画から始まりました。
ガレキと焼け野原と化した騎射場電停近くに、共助会倉庫が一軒だけポツンと建っていました。
下荒田の上原三郎さんは映画館の再興を決意すると、戦前からあった文化企業社の仲間をかき集めました。

ある者は映写機を求めて、ある者はフィルム集めに奔走しました。
鹿児島各地の防空壕には、旧軍隊の慰安用のフィルムが放置されていたそうです。
共助会倉庫を改造、ムシロのカーテンで外の光を遮り、シミのついたスクリーンに、デコボコの土間、板張りのベンチが2,3あるだけでした。

そうして、終戦から4日後の8月19日、騎射場で戦後初めての映画が上映されたのでした。
急ごしらえの映画館は、一回に400人ほど収容できたそうです。
9月10日付の鹿児島日報には、1日3000人以上の観客があったと書かれています。

上映された映画は、第1週目が「新雪」、第2週が「坊ちゃんの土俵入り」でありました。
天井に釘づけされたスピーカーは、破れ障子のような響きで主題歌を流していたそうです。

訪れる客の大半は、敗戦で職を失った工員や学徒、復員軍人などでした。
長く激しい戦争によって、娯楽に飢えていた人たちが詰めかけていました。
夏の盛りに戸を締め切り、光線の漏れを気にしながらも、市民たちは久しぶりの解放感を味わっていました。
急ごしらえの映画館は、「南映」と名付けられ、戦後の鹿児島において営業第一号のものとなりました。

2.第一映画劇場
上原さんは9月上旬、骨組みだけとなった山形屋3階の一角をムシロで覆い、「第一映画劇場」を新設しました。
ここでも連日客が押し掛け、超満員の大盛況であったそうです。
観客は、どんなフィルムでも殺到したのでした。

南映と第一映画劇場の両映画館は、さながら大衆娯楽の殿堂ともいえるほどの存在でありました。
上映される映画の大半は、歌と踊り,喜劇ものが大半であったそうです。

しかし、管内では「頭を下げろ!」「帽子をとれ!」といった怒声が乱れ飛び、口笛が鳴ることもあったそうです。
銀幕のヒロインの不幸にも真の涙はなく、喜劇にも腹の底から笑いが出ない虚ろな雰囲気を醸していました。
観客のなかには、行く当てもなくやって来たという人たちも、少なくなかったのでした。

山形屋の再開
露天商が乱立するなか、山形屋は昭和20年9月17日から営業を始めました。
販売商品は、在庫の文房具や台所用品、身の回り品などであったそうです。
この頃、まだ仕入れの見通しが立っていませんでした。
社員たちは、焼けた売り場を一部改造して品物を並べたそうです。
また衣料品補修部を設けて、衣料の更生サービスも始めました。

9月13日、山形屋は1階で公衆食堂をオープンしました。
委託食堂でありましたが、1杯80銭の雑炊が市民たちの人気を集めたそうです。

米軍進駐後、山形屋4階に米軍専用のダンスホールを造ることになりました。
昭和20年12月23日にオープン。
そのオープンは米軍専用ホールであったため、入場できる日本人はダンサーだけでありました。
当然、一般市民は立ち入ることはできませんでした。

一年後、軍政部の大半が引き揚げると、市民にも開放されました。
ダンスホールは、昭和25年まで営業されたそうです。

高島屋の再開
高島屋の再開は、昭和20年暮れのことでありました。
鹿児島港が引き揚げ港に指定され、引揚者の上陸が始まると、高島屋の2階以上を宿舎として提供するよう相談を受けていました。

そうして高島屋の2階から上は、引揚者の宿舎となっていました。
1階を店舗として開店しました。
しかし、商品は山形屋同じく、在庫していたものが大半でありました。
2階から上にあった引揚者の宿舎は、その後2年間つづいたそうです。
posted by ぶらかご.com at 22:34| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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