あまりに細い流れであったようで、名前が書かれていないものが殆どです。
終戦後の復興事業によって、蓋をされたもの、流れを変えられたもの、下水道になったものもありました。
鹿児島の市街地は標高が低く、排水路の整備は戦前から大きな課題となっていました。
なかでも天保山川の水路は、川幅が狭く、放流口は甲突川に向かっていました。
ひとたび洪水ともなると、甲突川の水位が上がるため氾濫するという状況にありました。
終戦後の復興事業は、これら不良排水を整備する絶好のチャンスとなったのでした。
市街地を区画整理事業に合わせながら、地形の高低にしたがって23の排水区に分けることから始められました。
そして、使える従来の水路は活かし、利用価値の少ないものは近くの水路に合流させました。
幅1メートル以上の幹線水路工事は河川水路事業で、それ以下の地先下水は側溝工事で施行されることになりました。
そうして、荒田川・鴨池川・天保山川という新しい水路を造りました。
天保山川水路の排水は、直接海に流れるよう施行されたのでした。
ほかにも、清滝川や高麗川などの河川工事によって、排水路が整備されていきました。
【 荒田川 】
昭和6年頃の市街地図を見ると、当時の荒田川は中洲方面から現小田代病院の辺りまで流れていたようです。
そこから、甲突川の方へ向かって流れていたようです。
復興事業によって荒田川は、現在の市電が走る通りまで真っ直ぐ伸ばされました。
そこから、荒田八幡神社のほうへ向かい、与次郎ヶ浜の浜橋の方に注いでいたようです。
新しく造られることになった荒田川について、地域住民から若干の反対があったそうです。
それまで小川程度の排水路であったものを、現在のような荒田川にしようとするものでした。
住民の反対意見としては、「そんなに川幅を広くする必要があるのか」というものでした。
反対意見に対し鹿児島市では、「周辺の集水面積から計算して、この規模でないと排水の役目を果たさない。同地区は放流口と同高度なので、この断面を大きく広くしてやらないと、排水能力が悪く、また小規模では満潮時の逆流にも弱い」と説明しました。
のちに、地域住民の納得も得て工事は進められ、現在のような荒田川となったそうです。
工事中の荒田川の写真が、『鹿児島市戦災復興誌』279ページに掲載されています。
荒田八幡の脇から与次郎ヶ浜に向かって流れていた荒田川。
護岸の老朽化によって、大雨のたびに浸水被害が発生していました。
そのため、昭和58年度から川に蓋をかぶせる工事が行われ、現在のような道路となったそうです。
【 原良川 】
原良川は、昭和27年度に整備工事が行われています。
鹿児島市では、下水道を雨水と汚水を分離する分流式を採用することになりました。
そうして、雨水路として荒田川・滑川・清滝川・原良川・西田川・照国水路などが整備されたのでした。
昭和44年6月、鹿児島市街地は集中豪雨に見舞われました。
当時造成中であった原良団地の土砂が、原良川へ大量に流されたのでした。
そのため、「かけごし」一帯は土砂に埋まってしまいました。
そうして、昭和49年9月から11月にかけて、原良川の改修工事が実施されたのでした。
「かけごし」から甲突川に向う、延長360メートルにわたって暗渠を埋め込みました。
それまで、原良川の脇には柳の並木道がありましたが、工事によってなくなり、現在のような道路となったそうです。
●そのほかの河川事業
整備されたのは、荒田川だけでなく次のような河川や水路も整備されていきました。
清滝川、天保山川、高麗川、草牟田川、黒田川、原良川、鴨池川、伊敷水路、洲崎水路、玉里川、松見川、常盤水路、真砂川、松方水路、滑川、鶴ヶ崎水路、郡元水路、名山掘水路、中郡水路など。
上にあげた川や水路については、資料を探している状態です。
戦前期の地図にあっては、川や水路に名前が書かれていないものが殆どです。
そのため、川の名前を特定することにかなり難渋しています。
分かりしだい、ご報告いたします。
今回は、知り得た河川だけに触れてみました。
【関連する記事】
自転車で石井手用水や清滝川などの遡上をする際に、参考にさせていただきました。
荒田川にはそのような歴史があったのですね。
とても興味深く読ませていただきました。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
先日、鴨池イオンの向かい側の橋を河口側から見たのですが、橋の下で暗渠2つが合流して川になっていて、これはなんだろうと疑問に思い、国土地理院ウェブの昔の航空写真を見ながら思いを馳せていると、友人がこちらへのリンクを教えてくれました。
航空写真に写っていた荒田川の事も気になっていたので、大変楽しく読ませて頂きました。わかりやすくて詳細な情報が沢山!
素敵な記事をありがとうございました。