2014年09月27日

平成5年8月6日の水害

「八・六水害」、筆者は直接的な被害を受けなかったためか、それともボーッとしていたためかよく覚えておりません。当時、筆者は坂之上に住んでおり、断水や停電といった被害はなく普段通りの生活を送っていた気がします。
ただ、MBCラジオからは、安否情報が流れていたことをおぼえています。
今回、水害に関する記事を探すにあたって、当時の新聞を図書館でめくってみました。
新聞は、かなり変色しており、災害からの年月を改めて思い知らされてしまいました。

天気概況
九州南部に停滞した前線に南から暖かい湿った空気が流れ込み、厚さ10km以上の雲が次々に鹿児島地方を覆っていました。
8月5日夜から降り続いた雨は、6日未明から激しいものとなりました。
6日午前中は北薩地方を中心に1時間50oを超す激しい雨が降り続きました。
午後になると、雨足はいちだんと強くなり旧郡山町では19時までの1時間に99.5oの記録的な雨量を観測していました。

各地の降水量は次の通り。PDFをクリックしてご覧ください。
H5augkousui.pdf

鹿児島市や近郊では、「100年に1度の大雨」と呼ばれるほどの局地的な豪雨となりました。
豪雨のため、河川の氾濫による冠水やガケ崩れが多発してしまいました。
このときの雨量、8月5日12時から7日6時までで旧川内市の376oを最高に宮之城と東市来で300oを超え、鹿児島市でも269oを記録しています。
また、鹿児島市では6日17時から19時の2時間で109oという局地的な集中豪雨もきろくしました。

■ 被害状況
鹿児島市を襲った豪雨によって、甲突川・稲荷川・新川といった3本の河川が氾濫し、天文から西鹿児島駅周辺など広い範囲が浸水しました。
甲突川と並走する国道3号線は、濁流の流れる川となり、新上橋と武之橋が流出してしまいました。
また、県内最古の石橋といわれた実方太鼓橋も流出しました。

6日夜、鹿児島市内では1万1千戸余りが浸水、市民4千人余りが58ヶ所に設置された避難所へ避難したそうです。

この豪雨で、ガケ崩れが各地で多発しました。
とくに鹿児島市の竜ヶ水では4kmの区間で22か所ものガケ崩れが発生。
JR竜ヶ水駅に避難していた上下2本の列車と国道10号線を通行中の車両約1,200台、地区住民が完全に孤立してしまいました。
鹿児島県災害対策本部では船舶による救出を要請、2500名以上を海上から救出しました。
これまでの災害で、海上から孤立者救出ということはわが国でも他に例のないことであったそうです。

八・六水害での死者は48人、行方不明1人、重傷者12人、軽傷者52人。全壊住家298棟、半壊住家193棟、床上浸水9378棟、床下浸水2754棟などでした。
八・六水害に関する本のなかで、『手記’93風水害の中で (かごしま文庫 (18))』には多くの体験談が掲載されていますので参考にしてみてください。
また、「かごしま市民の広場」や『かごしま戦後50年―写真と年表でつづる』にも被災地の写真が掲載されています。

■ さまざまな問題点
8月8日付南日本新聞3面に、「100年に1度の多雨が下地 警報の出し方に課題」と題する記事が掲載されています。

「記録的被害となった8・6豪雨。8・1豪雨の傷が生々しい鹿児島県に強烈なダメージだ。長雨後の局地的な集中豪雨が鹿児島県の災害パターンだが、今回もまさしくそれ。
しかも7月の月間雨量は92年ぶりに観測史上最多で、災害の起きる条件は十分すぎるほどだった。

実は7月の月間雨量は1054.5oを記録していた。1901(明治34)年7月の記録980.5oを塗り替えただけでなく、同気象台の月間雨量記録として最多だった1915(大正4)年6月の994oをも上回っていた。百年に一度と言ってもよい多雨だったのだ。
そこを6日午後4時過ぎから、猛烈な豪雨が襲った。同気象台では午後4〜5時に28o、5〜6時に50o、6時〜7時には59oに達した。
しかし同時間帯に日置郡郡山町役場では、それぞれ40、84、99.5oを観測した。
雨に対する最大級の警告「記録的短時間大雨情報」は、鹿児島では1時間85o以上の場合に出される。

郡山町役場の観測に従うなら、当然出されてもよい状況だった。しかし、同役場の観測は気象データとして正式に使えるものとはみなされないため、同気象台には伝わっていなかった。
県鹿児島工事事務所が八重山(入来町)に設置した自動観測器でも同時間帯にそれぞれ45、40、92oを記録していた。鹿児島市甲突川の氾濫は当然予想できる数値だったとも言える。
警報の出し方、気象情報の読み取り方、気象台と隣接市町村などのネットワークづくりに検討課題を投げかけていないか」

郡山町役場の雨量計のデータは正式なものではないとして、気象台に伝えられていなかった。この記事は縦割り行政のなせるものかもしれません。
おそらく、現在では気象台と市町村のネットワークは整備されているのではないかとおもわれます。この水害で、多くのものを学んだはずですから。

■ 南日本新聞「風向計」という記事
8月9日付南日本新聞に、「風向計」というコラムが掲載されています。
記事を書いた記者は、怒りを込めて書いているようです。

「長雨に加え、ケタ外れの集中豪雨が相次ぎ、鹿児島は大変な被害を被った。桜島大噴火や大空襲の経験はあるが、水害でこんな惨状は記憶にない。
南九州は毎年のように梅雨末期あたりで集中豪雨に見舞われ、「犠牲者が出ないとツユは明けない」と言われてきた。災害は水にもろいシラス地帯、台風・豪雨をもろに受ける南九州という風土の宿命だというような言い方もよく聞く。
そんな言説で、年々繰り返して起こる自然災害を受容し、その傷の痛みをいやしてきたきらいがあった。

しかし、今夏の大水害はそんな曖昧な災害観を吹き飛ばしてしまった。
むろんエルニーニョ現象の影響かという長雨、戻り梅雨、冷夏など平年とは予想を超えたものであり、異常だったといえるかもしれない。
しかし、不可抗力の自然災害と割り切るだけでは、死者たちは浮かばれまい。

危険なガケ下に相当数の住家のあるところは、鹿児島県が長たらしい名称で2800ヶ所ほど指定して、それなりの防災工事を進めている。花倉・竜ヶ水もむろん指定されているし、避難対策もとられているはずである。
初めてのガケ崩れなら弁明の余地もあるだろうが、同じ災害を再三繰り返しては人災というほかない。

甲突川の氾濫も現代の都市構造の弱点として、何度も論議され、検討されてきたことである。周辺山地の住宅団地化で保水力が落ち、ちょっとの降水でも急に川の水位が上がることは20年前から問題になっており、市街地にあふれた水は行き場がないと池と化すことは分かっていた。
百年に一度の豪雨と言うが、環境が激変した鹿児島市は10年に1度の雨にも危うくなっている。
古代中国の歴史をひもとくまでもなく、昔から治水は政治の別名みたいに重んじられてきた。水をコントロールできない為政者は失格だったのである。
人と水との関係、依存度といった変化はあるにしろ、今回のような大水害に遭うと、幕府の薩摩藩つぶしということを括弧に入れたうえでの“木曽川の治水”の現代版が必要だろう」

平成5年の長雨は農業にも深刻な影響を与え、野菜の価格がじわじわ上がり続けていました。
また、これまでの豪雨による土砂災害や冠水によって、水道が使えず、流通も滞るような状態に陥る地域もあったようです。
次回まで、八・六水害について触れてみます。

■ 8月8日付南日本新聞・南風録
「人の不幸をあざ笑うかのように、昨日は青空がのぞいた。見慣れた国道3号・10号の沿線風景や町の様子が、まるで別の場所のようだ。」
晴れ間を見ることのなかった鹿児島市、水害の翌日は嫌味なほどの晴天であったようです。
posted by ぶらかご.com at 23:58| Comment(0) | 鹿児島の災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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