2014年10月24日

城山にまつわる話

城山は吉野台地につづくシラス台地の端にあたり、標高107mあるそうです。
城山が文献に登場するのは、南北朝時代の頃のようです。
『薩隅日地理纂考』によると、「往古上山(うえやま)城と号し、感応の頃上山某居城なり」とあります。
城が造られた時期、規模など詳しい記録は殆ど残っておらず、断片的なものが残っているのみのようです。

■ 元禄の大火
元禄9年(1696)4月27日、上和泉屋町の立山助右衛門屋敷から火の手があがりました。火は折からの風にあおられ、家々を焼き尽くし、鶴丸城内にまで燃え移ってしまいました。
火勢は衰えず、とうとう本丸まで焼けてしまいました。
この火事で、家数866軒、町屋敷112棟が被害を被ったそうです。
城内にあった宝物、御記録所も全焼。貴重な記録、文書類もすべて焼失してしまいました。

第20代島津綱貴公は史官を藩内各地に派遣して、旧家や神社仏閣などの旧記を写すことを命じました。
完全な記録の復元はできなかったようです。
この火事は、鹿児島の郷土史を調べる上で注意しなければならないポイントであるようです。

この大火、実は放火でありました。
犯人は万七という者で、竹ノコ刑という罰を受けたそうです。
柱に犯人を生きたまま磔にし、通りがかりの者に切らせるという残虐な刑でした。
万七は子供たちにまで竹ノコで切られ、全身血だらけになって切り裂かれていたそうです。
数日後、万七は息絶えたということです。

これ以後も、薩摩藩は火事に悩まされます。
元禄10年と12年にも大火が発生し、元禄15年3月には江戸高輪藩邸が、同年10月には芝藩邸が焼け出されてしまいました。
元禄16年には家数2000軒を焼いてしまうという、史上最大の火事が城下で発生したのでした。
相次ぐ火災によって復旧はなかなか進まず、本丸が再建されるまでに8年を要したそうです。

18代家久公が鶴丸城を築くとき、明の帰化人であった江夏自閑に城地を占うよう命じました。
江夏は家相学の風水で、「この地は四神相応で武運長久の地。しかし、火難の相があるので霊符尊神のご本尊を安置するように」と占ったそうです。
江夏の占いに従って、城山には厄除けの霊符堂が建てられたそうです。
築城後の大火を見れば、江夏の風水は確かなものであったようです。

火事対策として、城前に空地をつくり防火帯としたり、夜回りを強化するなどの対策を行ったようです。
また風水の知識を生かして、「木屋町」を「金生町」に改めたりもしています。
木は火を生むが、金は水を好み、水は火に勝つという風水からの考えを取り入れたといわれています。

■ 明治以後の大火
薩摩藩を悩ませた火事、明治以後も悩みの種となっていました。
鶴丸城内に熊本鎮台第二分営を設置していました。
明治6年12月7日、兵営内から発生した火によって、鶴丸城は全焼してしまいました。
鶴丸城は一度も実戦で使われることなく、二度も大火に見舞われて焼けてしまいました。
その後も天文館周辺で火事が相次ぎ、日置屋敷が全焼するなどしています。

昭和27年4月24日午前0時15分頃、長田町で発生した火事は、50mの堀を越えて旧鹿大医学部と同付属病院などに延焼しました。
被害額は、当時の金額で6億円であったそうです。

■ その後の城山
家久公が鶴丸城を築城すると、城山は後詰に位置づけられ、鶴丸城防衛のため立入禁止となりました。このときから城山は、鹿児島の守りの中心であり、神聖な地となったそうです。
おかげで、都市近郊にありながら、数百種に及ぶ亜熱帯植物が群生できたのだそうです。

明治の世となり、城山で西南戦争の最終決戦が行われました。
明治10年9月24日、薩軍は壮烈な最後を遂げ、戦いは終了することになりました。
この戦いは、当時の鹿児島の人々の魂を城山に結びつける出来事になったそうです。
そうして、城山は心身修練の場として、また憩いの場として利用されることになりました。

明治23年には、鹿児島市の都市公園となり、様々な施設がつくられたそうです。
昭和5年頃には、自動車道建設をめぐって在郷軍人会と学者が対立するということもあったそうです。

次回から数回にわたって、城山にまつわる話に触れてみたいと思います。
posted by ぶらかご.com at 00:14| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。