2014年11月23日

明治19年9月23・24日の風水害

明治19年9月23日から24日にかけて、南九州一帯は猛烈な台風に見舞われました。
もっとも被害の大きかったのは、笠利村以南の39ヶ村。
当時の記録によると、「家屋全倒500軒、半倒638軒、倉庫全倒35ヶ所」であったそうです。
おそらく、船舶の遭難もあったと思われますが、漁船の損害は本土の方が甚大でした。

志布志の有明湾では、出漁中の漁夫約280人が一挙に無くなるという悲惨な事故が発生。
一夜明けた浜辺には、足の踏み場もないほど死体があがったそうです。
志布志ではこれを「枇榔島合戦」として語り伝えていたそうです。

枇榔島合戦
○9月23日の天気概況
午後2時現在、鹿児島の気圧756mb、北東の風、風力2、雨量48、一の低気圧は九州の南にあるものの如し。而して鹿児島は独り微降(756mb)を報じたれども九州の北西部は微昇、東部は甚昇を報ず。

○天気予報
全国的に北ないし東方の風吹き、天気不安定にして多少の雨

○暴風警報
午後3時30分、南海岸の警戒を要す

それまでの1週間、志布志近海は久しぶりの大漁に沸き返っていたそうです。
20日過ぎから海のうねりが高くなり、小雨がぱらつき始めていました。
時化の前触れを思わせましたが、漁師たちは港に帰らず、錨をおろしたまま漁を続けていました。

天気の状況は刻々と移り変わっていました。
「警戒を続行中のところ、23日午後9時に至り果して鹿児島の南西に低気圧現出し、同所は東の強風吹けり。24日午後2時に至り低気圧の中心はすでに鹿児島沖に来たり。同町の気圧は735mbに降下し、四国・九州は暴風となり宮崎は199oの雨量を報ぜり」

○運命の9月24日
24日午後2時現在、鹿児島・宮崎ともに風力5でありましたが、鹿児島の雨量は92oでした。しかし、豪雨の被害は宮崎のほうが激しいものがありました。
都城や飫肥などでは、この日、水死18人・圧死5人を出しました。
船舶の遭難で亡くなったのは1人であったそうです。

一方、県境を隔てた志布志の場合、悲惨でありました。
正午過ぎ、雲行きの激変に漁師たちが気づき、網をあげて帰り支度を始めていました。
時すでに遅く、台風の中心が襲い掛かってきました。
浜辺では家族や村の人たちが、「帰れ!帰れ!」と叫んでいました。
村人たちの目の前で、船は木の葉のように波にのまれ、次々と沈んでいきました。
やがて、風雨のため視界が遮られ、村人たちは夜通し泣き叫んだそうです。

翌朝、無数の死体が浜を埋め尽くし、確認されたもの280人。全滅であったそうです。
志布志の陸上での被害は、家の全半壊79戸。
この台風は、働き手と住家をいっぺんに奪い去っていきました。
遭難者にあって最年少の者は、12歳であったそうです。
勝手を知り尽くしていた湾内での事故、不運としか言いようがありません。

同じ日に発生した災害
同じ日、甑島の長浜沖で手打ちの漁船が遭難、2名死亡・15人が救助されています。
また、この台風で鹿屋郷の警察署をはじめ42戸が全壊、死者2人を出しました。
大隅地方にとって、それまで経験したことのないような天災となってしまいました。

平成5年に発生した「八六水害」やその後の自然災害のニュースでは、「未曽有の」や「百年に一度」、「これまで経験したことのない」と表現されます。
明治以後の自然災害をまとめた資料などをみると、「八六水害」に酷似した災害やゲリラ豪雨を思わせる気象災害がすでに発生していたようです。
次回から数回にわたって、明治の鹿児島市で発生した大きな災害に触れてみます。
posted by ぶらかご.com at 22:41| Comment(0) | 鹿児島の災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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