2014年11月27日

明治23年と明治24年の台風被害

明治23(1890)年9月23日、台風が襲い掛かり鹿児島市は大きな被害を受けました。
死者5名・負傷者1名、被害家屋数2025戸。
備荒儲蓄法の適用を受け、5日または7日分の食料を2018戸・8523人に支給して被災者の救助に当たりました。
また、家を失った932戸に小屋掛料を支給、金額は3286円であったそうです。

■ 備荒儲蓄法
この法律は1880年(明治13)に20年間の時限立法として成立したものでした。
法律制定の目的は、国家財政の大部分を占める地租を安定的に確保するため、「非常の凶荒・不慮の災害・地租の補い」に対処するものでした。
備荒金は地租収入の3%にあたる120万円と各府県の地租3%を拠出。国の拠出金120万円のうち30万円を毎年儲蓄し、残りの90万円を各府県に配布。府県は自らの地租3%分と合わせて運用し、災害準備金とするものでした。

罹災民1戸に対して食糧30日分、小屋掛料1戸10円以内、種籾料1戸20円以内で支給するという基準が設けられていました。
この法律は20年間の時限立法でしたが、10年目で儲荒高が相当程度になったという理由で儲蓄は打ち切られることになりました。

しかし、その後の濃尾地震、福井・富山の洪水被害、三陸津波などの大災害が毎年のように発生。1890年代の終わりごろになると儲蓄金は底を尽き、新たな災害救助金制度が創設されることになりました。

■ 鹿児島市の被害状況
鹿児島市内の被害状況を表にしてみました。

m23higaijoujoukyou1.pdf

『鹿児島市史』(大正5年刊)に、当時の様子が次のように記されています。

「明治23年9月23日 是日暴風あり、近来稀に見るの一大暴風たり。同市の被害戸数二千有余の多きを算し、又死者5名・負傷者1名を出すに至り。
災後罹災者は居るに家なく、食うに糧なく、或は親戚に救われ、或は知友に助けられ以て一時の難を免れたる者ありしと雖も、其多くは知友親戚もまた遭難中の人となり、遂に路上に彷徨し老幼相擁して飢えに叫ぶ者あるを見、麑城全街凄愴の気を以て満たされ、極目荒涼光景転だ惨憺たり。」
同年9月25日、鹿児島市長は暴風被害に対し次のような告諭を材木商に発令しました。
「今般暴風の災害に罹り、市内の惨状言うべからず。貧民の家屋に至りては、全倒半倒等殆ど全市戸数の九分の一に垂んとす。
之れが小屋掛等に供給する材木その他の要品を商業とする者は、此災難の事情を深く酌み受け、平常の価格を以て売り払はらわるべし」

災害後、どのような状況であったか同書や鹿児島市史では触れていません。
この辺につきまして資料を探している所でありまして、分かりしだい掲載したいと思います。


■ 明治24年9月13日の台風被害
およそ1年後の9月13日、またまた鹿児島市に台風がやってきました。
この台風の最低気圧は966.2mb、最大風速16.4m/s、降水量144oでありました。
大正5年刊行の『鹿児島市史』では、次のように記しています。

「是日暴風雨、家屋の倒潰大破など512戸に達し、和船11を壊われり。是より先き同12日午前10時より天候不穏の兆しを呈し、風少しく加わり同日午後4時頃に及んで漸次風力を増し、遂に是日午前第三時頃に至りて暴風となれり。風力は昨年の暴風に大差なかりしと雖も被害戸数その半数に達せざりしは、主として市民全体昨年の惨況に鑑み、自衛の方法を講じたるに因る。市は例により罹災貧困者を救助したり。」

食糧を給与したる戸数235戸(993人)
給与したる食糧数量9石壱斗八升四合(玄米)
小屋掛料を給したる戸数372戸・金935円であったそうです。

また、この台風で新築工事中であった市役所庁舎が倒潰してしまいました。
この庁舎は木造2階建で、現在の市立美術館のところでありました。
『勝目清回顧録』によると、完成した市庁舎は当時としては珍しい西洋式の木造二階建ての建物で、落成式のときたくさんの市民たちが見物に出かけたそうです。
大正末期頃には、相当腐朽が進み、床下は白アリにそうとう食われていたそうです。
この市庁舎の画像は、『明治大正昭和ふるさとの想い出写真集 鹿児島』、ほかの写真集に掲載されていますので、参考にしてみてください。
posted by ぶらかご.com at 00:15| Comment(0) | 鹿児島の災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。