2015年01月17日

茶碗屋馬場(ちゃんやんばば)

長田町の高野山を出て、今回は同町の「茶碗屋馬場」に行ってみました。
そこには鹿児島ロータリークラブの建てた石碑があるはずでしたが、以前訪れたときは見つけることができませんでした。
今回ようやく、石碑を見つけることが出来ました。

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『古地図にみる鹿児島の町』によると、茶碗屋馬場東南側の緩やかにカーブした上り坂は「ハンズン坂」と呼ばれていたそうです。
「ハンズン」は半胴・半斗などと書き、台所などに水を汲み、ためておいた焼物の“かめ”のことだそうです。

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藩政時代の古地図などによると、長田町周辺は高い身分の者の屋敷や士屋敷が建っていたようです。
茶碗屋といっても商店が並んでいたわけではなく、陶器を焼く窯に因んでいるようです。
かつて茶碗屋馬場の山手側には、敷地面積600坪の「焼物方御用屋敷」がありました。
また、興国寺墓地近くには竪野窯または冷水窯と呼ばれる藩主専用の御庭焼窯があり、そこで焼かれた焼物を「竪野焼」と呼んでいたそうです。

竪野窯(冷水窯)
竪野窯の起源は、豊臣期朝鮮に出兵した島津義弘公が朝鮮陶工を連れ帰ったことにあります。文禄・慶長の役は、「焼物戦争」とも言われているそうです。
慶長3(1598)年8月、帰国命令がでると大名たちはこぞって朝鮮陶工を国元に連れ帰りました。
義弘公だけでなく、黒田長政や毛利輝元なども朝鮮陶工を連れ帰っているそうです。
この時期から朝鮮陶工たちは、有田焼や上野焼、高取焼、高田焼、萩焼などを始めています。

【 秀吉、茶の湯の御政道 】
島津氏と茶の湯の関わりは室町時代にさかのぼるそうです。薩摩では戦国期から当主の島津義久・義弘を始め老中の伊集院忠棟、上井覚兼といった上級家臣を中心に広く、茶の湯が受容されていたそうです。

豊臣秀吉の時代、茶の湯は講和や外交の場として、また名物茶道具で飾られた茶室は視覚的に権力を誇示し、主従関係を確認する場にもなっていました。
茶の湯は、政権と結びつく回路としての役割を果たし、茶道具は外交戦略上、重要な贈答品にもなっていました。
朝鮮の陶工を自国に連れてきた背景には、茶器の自国生産と産業の振興という側面もあったようです。

【 薩摩での陶器生産 】
朝鮮から帰国した義弘公は、薩摩に帰ることなく関ヶ原の戦いに参戦、西軍に与したことから敗北を喫してしまいました。
島津忠恒公が上京して所領を安堵され、戦後処理が一段落したのは2年後の慶長7(1602)年4月のことでした。
薩摩藩が薩摩焼育成に本腰をいれるのは、この後のことであるようです。

帖佐の居館に戻った義弘公は、朝鮮陶工の金海に宇都帖佐窯を慶長6年頃に築かせました。
義弘公、金海をとても寵愛していたらしく、士籍に列し、「星山仲次」の名を与えています。
金海の子孫は代々、仲次を名乗ることを許されました。
翌7年には金海を尾張瀬戸へ5年間の修業に派遣。
帰国後、金海は古帖佐物として後世の茶人が珍重する茶入などを焼成しました。
慶長13年、藩主義弘公が居城を加治木に移したため、宇都帖佐窯は廃窯となりました。
金海は加治木反土に、藩主の御用窯である「御里窯」を築きました。
加治木に移住して12年後の元和5年(1619)7月21日、義弘公は亡くなってしまいました。
御里窯は、藩主の死によって閉じられることになりました。

次の藩主家久公は元和6(1620)年7月、金海を鹿児島に呼び寄せ、竪野冷水に藩主専用の窯を築かせました。それが竪野窯または冷水窯になります。
金海はこの窯に帰化朝鮮人申主碩(帰化名、田原友助)と弟の申武信(帰化名、田原万助)を推挙して製作にあたらせました。
金海は新しい窯に移ってまもなく、元和7年12月、52歳で死去。
息子の金和が、二代目星山仲次を名乗って家業を継いでいます。

この窯は、家久公や光久公の命によって肥前・京都などに陶工を派遣して、新たな陶法導入にどん欲に努めました。
技術の導入・開発によって薩摩錦手と呼ばれる独特な焼物が生み出されました。

隆盛をきわめた竪野窯、幕末磯別邸での御庭焼開始、薩英戦争での罹災によって終に廃絶してしまったそうです。
現在、この窯址は住宅地となっているそうです。
posted by ぶらかご.com at 23:09| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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