2015年01月21日

島津義弘公と茶陶

関ヶ原の戦後処理が一段落した慶長7(1602)年、薩摩藩は本格的に薩摩焼育成に着手したようです。
帖佐にもどった義弘公は、朝鮮陶工の金海を招きました。
慶長7年、近海は藩主の命を受け尾張瀬戸へ赴き5年間滞在し薩摩へ帰って来ました。
宇都窯を開くと、古帖佐物として後世の茶人が珍重する焼物をつくりだしたそうです。

慶長13年、義弘公が居城を加治木へと移したため宇都窯は閉じられてしまいました。
金海は新たに加治木反土に、藩主の御用窯である「御里窯」を開きました。
この窯は存続期間も長く、金海も長期の旅に出ることがなかったため、数多くの焼物が生み出されたと考えられています。
ここでは、茶碗・茶入・火計り手・御判手など藩主好みの茶陶を作っていたそうです。

茶人、義弘公
政権を運営するなかで“茶の湯”を重んじた織田信長と豊臣秀吉。
この頃、千利休が完成させた「侘び茶」は諸大名の新たな素養のひとつになっていました。
薩摩では当主の島津義久公、弟の義弘公、老中の伊集院忠棟公や上井覚兼など様々な階層で茶の湯が行われていたようです。

なかでも義弘公は、千利休に師事していたようです。
薩藩旧伝集に、「惟新公は千利休より茶の湯御伝受被遊候、白濱覚左衛門御側に被勤御相伴弟子也」とあって、利休に茶の湯を伝授されたことが記されています。
当時茶の湯は政権と結びつく場として、腹の探り合いをする場にもなっていたと思われます。また、茶道具は外交的に重要な贈答品でもあったようです。
茶入という濃茶をいれる小さな器がありますが、なかでも唐物茶入は戦国時代にあっては一国一城にも匹敵したそうです。
荒木村重が茶道具をもって毛利を頼り尼崎に走ったのも、この辺にあるかもしれません。

薩摩茶入
関ヶ原戦後、義弘公は一度も上洛しませんでした。
薩摩と幕府との正式なやりとりは、幕府取次役山口直友と義久公・忠恒(家久公)との間で行われていました。
しかし義弘公は、山口直友など幕府重臣や茶の湯関係者との間で茶陶をめぐる交流を行っていたようです。

慶長7年には山口直友が型見本とともに肩衝(かたつき)を所望しており、義弘公はこれに応えて2つを送っているようです。
翌年には宇治の茶師の間で、茶壺が好評であったそうです。
慶長9年には、茶の湯の巨匠であった古田織部が薩摩茶入の焼きぶりを褒めるという支持を受けました。
すると、数寄者や在京の人々が薩摩茶入を欲しがるという状況になりました。

茶の湯の大家であった古田織部の評価が、薩摩茶入の評判にも大きな影響を与えることになりました。
義弘公は織部の批評を陶器づくりに生かしたことと思われます。
のちに秀忠上洛以降、島津忠恒(家久公)との親交も深まっていることから、古田織部の果たした役割は相当大きいものであったようです。

【 肩 衝(かたつき) 】
茶入の形状のことで、肩の部分が角ばっている、すなわち肩が衝(つ)いていることに由来するそうです。
肩衝の形態には、肩のつきかたで「一文字」、「怒肩」、「撫肩」などがあります。
また、茶入の大きさにより、大きいものを「大肩衝」、小さいものを「小肩衝」といい、丈のつまったものを「半肩衝」と呼ぶそうです。

翌年のこと、「徳川秀忠が将軍宣下のため上洛することになり、薩摩茶入をご覧になるかもしれないという」書状が山口直友から義弘公に届きました。
書状を受けて領外への持ち出しが、一時的に差し止められることになりました。
秀忠が上洛する直前に、上覧するための肩衝茶入を送るようにとの書状も届いているそうです。
山口直友協力のもと、入念な準備を進めていたと思われます。

将軍宣下のひと月後、古田織部が上洛中の島津忠恒公を茶席に招きました。
その5日後には、将軍秀忠が忠恒公を招き自ら茶を振舞ったそうです。
忠恒が家康から一字を拝領して「家久」と名乗り、義弘公が許されるのは慶長10年のこと。
当時は未だ薩摩藩の行く末が不安定な時期にありましたが、忠恒は正式な場で中央政権の人々と交流していたのでした。
また、義弘公は薩摩に居ながらにして「茶入」を通して外交を行っていました。
茶道具は薩摩藩の外交戦略上、ひとつの要として機能していたようです。

■ 義弘公の死後
元和元年(1615)、大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡すると状況は大きく変化してしまいました。
古田織部は豊臣氏と内通したという嫌疑によって切腹、その5年後には義弘公も亡くなってしまいました。
ふたりの死によって、薩摩茶入は政治の表舞台から姿を消していったと考えられています。

幕府は武家諸法度を発布、法による武家統制を強化していきました。
毎年定められた時期に国元の産物などを献上する例年献上が増え、書状のやりとりも定型していったそうです。
こうして、外交上において茶の湯の重要性はしだいに減少し、政権中枢との私的なやりとりも減少していったと考えられています。

政治の表舞台から姿を消した義弘公、陶器づくりを主導し、政権中枢の人々に薩摩茶入れを盛んに贈呈。
茶の湯を通じて外交を展開し、徳川政権との信頼回復を図ろうという狙いがあったのかもしれません。

posted by ぶらかご.com at 22:34| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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