2015年05月07日

上町周辺

海岸線
現大龍小学校のところに内城があった頃のこと。
鹿児島の土地は、今とはずいぶん異なっていたようです。
この頃の甲突川は、平之町辺りから城山の麓を流れ、照国神社近くから御着屋を経て俊寛堀附近で海にそそぎ、河口周辺は葦の茂った湿地帯であったそうです。
平安時代末から鎌倉時代にかけて、この甲突川河口が港になっていたようです。

海岸線は今よりもずっと内陸部まで侵入しており、今の天文館周辺は中福良と呼ばれていたそうです。『御家兵法純粋』に、「中福良は吹上浜の小形で、砂の吹上にて地面高く綺麗なり」とあります。
城下絵図をみると、今の天文館通りは中福良通りと記載されています。
また『薩藩天保度以後財政改革顛末書』によると、山之口馬場や地蔵堂(地蔵角)の地勢は少し高く、松原・南林寺辺は海中で、西千石町旧伊勢屋敷は葭草の渚であったという
甲突川が現在のような流れになったのは、鶴丸城ができて以降のことになります。

内城の時代、鹿児島の中心は現在の上町周辺にありました。
国道3号線あたりが、当時の海岸線であったろうと考えられています。
『落穂集』によると、築地が完成するまでは稲荷川河口が海の玄関口であったようです。
琉球や道之島通いの大きな船は、祇園社(現八坂神社)の脇に潮時をみて引き入れ、多賀山の木につないであったそうです。
『鹿児島市史T』に、戦国時代(内城時代)の鹿児島想像図が掲載されていますので、参考にしてください。

上町(かんまち)
『鹿児島のおいたち』によると、内城時代の侍屋敷は概ね清水城時代と大差なかったろうが、南側を始めとして充実していき、殊に貴久の頃に家臣の来住する者もふえ仮屋がましたと思われる。
また慶長4年の夏、主人の許を離れて鹿児島に移る者が多かったので、義弘は主人の心中を考慮して人物を見計らうよう家久に忠告している。
忠告しなければならないほど、鹿児島に移住する武士が多くなっていたようです。
この時代、忠君の意識は江戸時代ほど強くなかったのかもしれません。

『上井覚兼日記』に天正3年(1575)12月21日、鹿児島で火事が発生したことを記しています。
「此の夜子の刻、当所下町焼亡也。加治木下仮屋より火起り候て、光明寺(浄光明寺)にてとりとどめ候也」
『鹿児島のおいたち』によると、「この下町とは後世の下町ではなくて、山の手に対する下町で、加治木地頭の仮屋が下町にあったのであろう」とあります。
この頃は、江戸時代のような身分制度はなく、ゆるやかなものであったようです。
例えば、黒田嘉兵衛は、初め町人であったが召し出され、士分として朝鮮役に従軍するという人物もあったようです。

この時代は、武士小路や武士の居住地、町人の居住地といった明らかな区別はなかったのかもしれません。
身分制が厳しくなるのは、江戸時代に入ってからのようです。
江戸時代の上町は、現在の3号線から海側に位置する狭い地域でありました。
次回は、上町の町屋敷について触れてみます。
posted by ぶらかご.com at 00:22| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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