2015年05月17日

上町(かんまち)

鹿児島駅の周辺には、昭和42年まで恵美須町・栄町・車町・和泉屋町という町名があったそうです。古地図などをみると、戦前まで近世の面影を残していたようです。戦災や戦後の区画整理によって変わってしまい、近世の面影を探すことは難しいようです。

それでも上町周辺には、虎屋小路や卸口小路など古い通りが残っており、石碑も建てられています。
この石碑、58基あるそうですから探してみるのもいいかもしれません。

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鹿児島城下の町屋にあっては、上町(かんまち)が始まりであるようです。
多賀山に東福寺城があった頃には、小規模な市や店があったかもしれません。
清水城が築かれた頃には、士をはじめとして人々が集まるようになっていたようです。

■ 清水城時代
『倭文麻環巻五』は、清水城時代の様子を次のように記しています。
「江門(えど)にて諸大名などの第宅を構ふる近辺には必ず市店の屋を作り立ちぬるがごとし。さればむかし東福寺城の麓なんどは必ず市店ありしならん。
况して恕翁公(元久)、至徳中清水城を修築し給ひてよりは、いよいよ町家も広まり軒を連ね甍を並べて朝夜共に賑わひ立ちしほどに・・・」

清水城が築かれた以降は、人々が集まり町がつくられていったようです。『倭文麻環巻五』は、町屋について次のように記します。

■ 恵美須町(えびすまち)
「鹿児島市中(いちちゅう)の元始は、今の上恵美須町なり。恵美須は事代主命(ことしろぬしのみこと)の顔の笑給へるを称せし社号なり。この命はむかし出雲の三穂崎にて釣するをもて楽(わざ)としたまひしをもて、その像は必ず鯛魚を釣したる形なり。
恵美須町にこの神の祠を立て魚市をなす。当時は魚屋一へん商人ありともいへり。其後は繁昌して武具の属をも販売せしにや、今も二月二日の初市と云ひて土偶(つちにんぎょう)、紙冑(かみかぶと)、木刀(きがたな)の類を持出し鬻衒(ひさぎうる)。
さてむかしは今の行屋通までは、波うち涯の海辺にて、この恵美須町に諸所の浦々より店卸の売物を運漕す。海より恵美須町に通船の川筋を鬼神堀と唱えて、今も恵美須町西村某が宅地に其堀跡の形計りを存しぬ」


現在の小坂通り沿いにある樹心寺や柳町福祉館の辺りは、海辺であったかもしれません。
行屋通が現在、どの辺りにあたるのかはっきりしませんが、分かりしだいご報告いたします。
鹿児島市、商業の始まりは恵美須町から始まるようです。

■ 内城時代
現在の大龍小学校のところに、内城ができるころになると、町屋はさらに増え、恵美須・廓・柳町ができたそうです。
これらの町について、『倭文麻環巻五』は次のように記しています。

「本御内の城(現在の大龍小学校)築かれし時、恵美須町のみにては分内狭しとて廓町を立添えられる。本御内の廓裡(くるわうち)に係るとて、かく呼びしを後に今の如く“車町”と改めしとぞ。又今の蛭児社の辺りを築島と称ふ、是より浜つづきに堤ありて柳を植えられぬる程に、そが町となりしをば柳町と名け、後又魚屋を立て小魚屋と呼べり。蛭児社の小路を笠口(おろくち)という、是も本は卸口(おろしくち)にて、海に下る卸門(おりもん)なり。

又行屋の千手観音は真言宗日秀が沖縄島より帰来の時、行法を修し国家の安全を祷りし時勧請するところにして、其海辺を頓て行屋通と号けぬ。
それより海手の方に今の如く土地を広められしは慶長中、上山の地に金城を築かれけるより追々、海洲を埋展(ひろめ)給ひしなり」

『鹿児島のおいたち』によれば、この頃の港は稲荷川河口附近で、周辺には唐人なども住みついていたようです。町屋は滑川周辺まで密集していたようです。
町屋の詳細についてハッキリとわかりませんが、町屋の建物は貧弱なものであったようです。
posted by ぶらかご.com at 15:55| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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