2015年06月10日

今からちょうど70年前の元旦

今からちょうど70年前の正月元旦、この日は晴れ上がった青い空が広がっていたそうです。
当時、大東亜戦争の勝利に備え、ほとんどの物資には強力な統制が布かれていました。
手に入りにくくなった食糧を求めて、農村に出向く人たちもありました。
この年は、特別配給のモチ米で正月のモチを食べ、配給の焼酎で屠蘇を祝うなど、町では正月らしさを味わといった、のんびりした雰囲気であったそうです
また、この日は学校や職場の拝賀式に出かけようと、隣組同士「おめでとう」を言い交わす、正月気分にひたっていました。

■ 拝賀式
戦前、元旦は、全国の学校で拝賀式が行われていたそうです。
当時の学校には、奉安殿と呼ばれる祠が備わり、そこには天皇・皇后両陛下の写真が納められていました。
鹿児島市史によると、鹿児島市内の学校で初めて奉安殿が設置されたのは、大正14年10月、鹿児島第一師範学校であったと考えられているそうです。
昭和時代前期になると、鹿児島市内の殆どすべての学校内に奉安殿を建てられたそうです。

各学校で拝賀式の式次第は異なると思われますが、一例をあげてみます。
純白の手袋をした校長先生は、奉安殿から御真影を取り出すと、両手で持って、厳粛に講堂まで歩くものであったそうです。
講堂の正面に設けられた神棚の中に、御真影を奉掲するまで最敬礼をして迎えるのでした。
講堂に御真影をかかげた後、ひもで下から自由に開閉できる幕式の白いカ−テンを閉じるまで、1時間ほどかかったそうです。

そうして午前10時、講堂に入って、ようやく拝賀式が行われるのでした。
式次第は、小学校の教務(現在の教頭)が進行係で、「掲帳」と言うと、幕式のカーテンを開けるのでした。
向かって左側に天皇陛下、右側に皇后陛下の御真影が現れたそうです。
その間、参列者は全員、最敬礼をすることになっていました。
君が代斉唱のあと、来賓、校長、教職員、生徒たちが御真影の前で礼拝するものであったそうです。
この後、校長が代表して壇上で新年の挨拶及び訓話をし、正月の歌をうたい、ようやく拝賀式が終わるものであったそうです。
式が終わると、子供たちには2個のパンが配られるところもありました。

鹿児島市立山下国民学校でも、拝賀式の後、「愛国パン」と呼ばれるラグビーボール型の黒いパンが2個ずつ生徒たちに配られたそうです。
(本の題名を度忘れしてしまいました。後日、記述します。)

昭和20年1月1日午前十時ごろ、ちょうど拝賀式が始まろうとした頃(山下国民学校では終わっていたようです)、これまで聞いたことのない爆音が聞こえてきました。

■ B29、鹿児島市に初めてお目見え
この日は、鹿児島市に初めてB29が飛んできた日でありました。
戦争体験などによると、このB29は志布志方面から鹿屋、垂水を経て、国分上空で旋回した後、鹿児島市上空へと飛んできたようです。

@終戦六十周年戦争体験文集、伝えたい私からあなたへ 戦争の悲惨さと平和の尊さを(コープかごしま)、「no more sensou」から。
昭和20年1月1日の朝、鹿屋航空隊から16キロの地点にある西俣国民学校校庭では、拝賀式に臨むため全校生徒が整列していた。
すると異様な爆音と共にキラキラと翼を光らせて飛行機が飛んできた。皆、一斉に空を見上げた。「米軍機だぞー」誰かが叫び、どよめきが起こった。

A同文集;「私の命を救った祖母ハツ」より
代用教員で国分から霧島神宮近くの小学校に通学していた。
元旦は新年の祝賀行事で恒例の式を行い、生徒たちを帰校させてひと休みしていたとき、いきなり空襲警報が鳴った。
その内、聞きなれない「ウォン、ウォン」という音がして、雲の間からB29の編隊が現れたのである。キラキラ光り、飛行機雲をはき、それはゆうゆうと飛んで行った。
どこからか日本軍が撃ったであろう高射砲が、空に花火のようにひらめいて、とてもきれいだった。しかし、とてもB29のところまで届くものではなかった。

国分上空で旋回したB29は、10時頃、吉野方面から鹿児島市街地上空へ飛んできました。
市内各地に設置されていた高射砲や高角砲が、いっせいに火を噴き始めたそうです。
体験集などによると、高射砲が設置された場所は次のようになるようです。まだ、他にもあると思われますが、筆者が気づいたところだけ列記しました。
多賀山・天保山・武岡・鴨池航空隊と練兵場・旧鹿児島女子短・丸支天山(唐湊)・伊佐ノ原(広木)など。

天保山は海軍の12糎高角砲、武岡高射砲陣地は現長島美術館の辺りにあったそうです。
唐湊の丸支天山は、摩利支天のことかもしれません。
アメリカ第21爆撃集団司令部、45年6月18日付の指令書(作戦任務第206号)によると、鹿児島の対空防衛について、次のように分析していました。

1.対空防衛
写真の解析から得られた鹿児島の防衛体制の全体的な戦力は以下のとおりである。
重対空砲32基、中対空砲59基、サーチライト2基。
2.爆撃軸と高度
 鹿児島市街地に対する夜間爆撃については、防衛力が比較的手薄なことにより、まずレーダーによるもっとも適切な接近方法を与えるルートによって、爆撃軸が決定された。目標市街地に対する接近は、存在が確認されているすべての高射砲を避けるために、7000フィートの最低高度が計画された。

この日、鹿児島に現れたB29は、マリアナ諸島から飛んできた写真偵察専用に改装された飛行機であったようです。
写真偵察専用に改装されたB29を、F−13と呼んでいたそうです。
絶対国防圏最後の砦であったサイパン陥落後、日本列島はB29の射程圏内に入ったのでした。
B29の試作1号機・2号機が初飛行したのは1942年9月と12月のこと。
1943年になると、B29は対日戦のみに使用することが確認されたのでした。
試作機の初飛行から1年後の1944年11月には、9機のF−13が配備されました。
それ以降、日本各地を飛び回って偵察と撮影を行ったようです。

ネット上に、1945年米軍作成の鹿児島市の地図が掲載されていました。
Isiki Station(伊敷電停)、45infantry Regiment(45連隊)、satsuma cotton spinning mill(薩摩紡績工場)、probable aviation(予科練)、ibusuki line(指宿線)、power plant(発電所)など、重要な施設は殆どお見通しだったようです。

また、原良町や郡元町、宇宿町など市内各地の名前も正確に掲載されています。
なかには、「KAJIWARASAKO」という小字まで書かれたものもありました。
おそらく鹿児島にゆかりのある日系人や、滞在経験のある人などを総動員して作ったと思われます。
地名のなかに「MURASARI-BAI」というのがあり、位置からすると、紫原(むらさきばる)のことのようです。土地の名前を聞かれた人が「むらさっばい」と答えたと思われ、地図の作成者は「MURASARI-BAI」と書いたのかもしれません。
「むらさっばい」、なかなか耳にすることはありませんが、意外なところで出くわしてした感じがします。
ただ、この地図ひとつとってみても、アメリカ軍は総力戦の意味がよく分かって日本軍と戦っていたようです。

■ 初めて見るB29に対する、不思議な気持ち
この日、鹿児島市内の各地でB29を目撃した体験談が残されていますが、防空壕に入る人、はたまた空を見上げ続けている人など、様々であったようです。
見上げていた人は、一様に“怖さ”よりも“不思議な感動”と“友軍の不甲斐なさ”を感じたようです。
『鹿児島県の空襲戦災の記録 第1集鹿児島市の部』の一部を引用しました。

@遂に私の家も焼けた 初めて敵機現れる
 昭和20年1月1日、洲崎国民学校(現城南小学校)の運動場では拝賀式が始まろうとしていた。全員2000名近い児童の前に担任がならび新しい決意に燃えている。折しも上空に爆音が聞こえる。見上げると“30センチ位の大きさ”に、見慣れない型の一機が飛来。
上空に鴨池航空隊からの発砲の爆裂音、ポンポンポンと空に丸く白煙が打ち上がる。
(途中略)
敵機はゆうゆうと去って行った。B29、高度1万メートル。これが鹿児島市に初めての敵機だった。
“少しも恐ろしく感じなかった。余りに美しい重量感のある飛行機に、ただ見とれていたのだった。そしてやがて全身に恐怖が走った”。

A敵機、初めて鹿児島の上空に現れる 初めて見る敵機に感動 
はじめて見る敵機(それがB29であると知ったのは後のことだった)にただ感動を覚えた。日光を受け、銀色に輝いていた。今まで見た日本の軍用機が鼠色をしているのに、米機が白銀色であることも初めて知った。
敵機の来襲の恐ろしさとか、敵機に対する憎しみということなどを乗り越えた、感動である。胸の高鳴るのを抑えることができない。それが何の為であるとか理由はない。
高射砲の打ち上げられる数も多くなったが、敵機の左右または前方と炸裂する煙がよく見えるが、なかなか当たらない。むしろ届かないのである。
“なぜ日本空軍はあの敵機を撃墜しないのかと、腹立たしくさえ思った。」

鹿児島市上空を飛んでいたB29は、旧山川町上空から南方へと去って行ったそうです。

B空襲の日々 
アメリカの飛行機が初めて山川港の上空に飛んできたのは、昭和20年1月1日の朝であった。私達はちょうど拝賀式に出ようとしていた。かなりの高度を飛んでいるためだろう、ほとんど爆音も聞こえず白く光りながら、流れるように南の方へ飛んで行った。
日本の飛行機が迎え撃つとか、後を追うということも全くなかった。「どこに何があるか偵察に来たに違いない」と私達は言い合った。
不気味な年の明け方であった。

これ以後、鹿児島の上空にはB29や艦載機などが通過し、警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り響くようになりました。が、爆撃はなく、警報が鳴っても急いで避難する人もなかったようです。
しかし、アイスバーグ作戦(沖縄上陸作戦)と特別攻撃に対処するため、アメリカ軍にとって南九州は重要な攻撃目標となっていきました。
posted by ぶらかご.com at 23:47| Comment(3) | 鹿児島の近代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
元旦という言葉は正月(1月1日)の朝という意味なので
正月元旦て表記だと落石が落ちるやお金を入金する
的なおかしな文章になりますよ
Posted by 愛読者 at 2015年06月18日 02:05
ご指摘ありがとうございます。
すっかり、忘れていました。

何かおかしな点がありましたら、ご指摘ください。
Posted by 鹿児島ぶら歩き at 2015年06月18日 17:33
初めまして。現在、この事案の調査を致しております。大変勉強させて頂きました。
御連絡を頂きたく存じます。
Posted by kunisaki at 2016年07月30日 00:47
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: