2015年08月23日

戦前戦中の鴨池飛行場周辺

飛行場建設前
今では想像もつきませんが、古い地図や書物などによると、現鹿児島市立図書館周辺は白砂青松の風光明媚な海岸であったようです。
また鴨池の浜から南の方に目を移せば、現真砂町から谷山小松原、七つ島まで松林がつづいていたそうです。
飛行場ができまでは、今の真砂町や真砂本町も海岸に接しており、風光明媚なところでした。

現真砂保育園の辺りには、松林に囲まれたサナトリウム境濱海濱院と呼ばれる病院がありました。
療養施設としては、最適な環境にあったようで、『鹿児島案内』」という本に、海浜院の様子を次のように記しています。

「鹿児島境濱海濱病院は市外郡元境濱にあり。明治38年医学士加藤好照氏の創立に係る病院なり。同院の周囲は白砂青松を以て繞らし、其境間実に壱萬三千有余坪の面積を有し、地質は表面砂土より成れるを以て、常に乾燥し水質は清良なり。空気は新鮮にして“オゾン”に富み、加ふるに白砂青松相連なりて気候温暖、風光明媚他に多く其比を見ざる所にして(途中略)濱に貝を拾ふべく、海に魚を釣すべし、其の曠濶にして雄大なる洵に天然の楽境(楽土)と云うべし・・・」

【 鶴ヶ崎温泉 】
昔の真砂町周辺は風光明媚なところであったことから、昭和8年に鶴ヶ崎温泉という施設が造られたようです。
鶴ヶ崎温泉について『鹿児島県温泉案内』(昭和8年刊)は、次のように記しています。

「鹿児島市外、郡元鶴ヶ崎にあり、往時柴立温泉と称して温泉が湧出し居りしも、薩藩の政策により之を閉塞したる事実あるに鑑み、斯道の専門家を聘して種々調査研究の結果、現在の場所を卜して昭和6年5月起工し、翌7年6月掘削深度約2千尺にして、湯量豊富なる好温度の温泉湧出したり。
 同泉は株式組織で、浴場の建設遊園地及噴泉設備等何れも極めて近代的設備をなす等、約半歳を費し漸く本年3月下旬開業の運びとなりたり。殊に本温泉は広大なる敷地を有するを以て、希望の向には土地及び温泉を分譲する等目下着々事業の遂行中である。」

鶴ヶ崎温泉の場所がハッキリしないため、地図に示すことはできませんが、海岸近くにあったようです。「又海岸に接近し、夏季は海水浴に至て便なり」。
泉質は、「無色透明にして臭気なく、塩味を有す」であったそうです。

鶴ヶ崎温泉のアクセス方法について次のように記しています。
「鹿児島駅及西鹿児島駅より電車にて郡元(現在の涙橋)に下車し、徒歩約二丁、鴨池遊園地より約五丁なり、今回会社の直営にて郡元電車停留所より温泉場迄、乗合自動車の認可を得たから不日開通の運びになろう。」

契機の悪い時代であったと思われます。空港建設も計画されおり、それを見込んでの先行投資であったかもしれません。

空の玄関口
第一次世界大戦が終わると、世界的に飛行機による世界一周競争がブームとなりました。
世界一周を目指して初めて日本にやって来たのは、アメリカのスミス機であったそうです。スミス機は東京到着後、上海へ向かう計画を立て、途中鴨池沖に着水しました。
燃料や食料、飲料水補給のための着水でした。
当時の世界一周機はゲタ履き、『紅の豚』に登場する水上飛行機でした。
その後も世界一周を目指す外国の飛行機が、次々と錦江湾に着水するようになったそうです。

昭和に入ると、飛行機の性能は格段に向上して陸上機が主流となってきました。
民間だけでなく軍も飛行場の必要性が高まって来ました。
また、当時日本の空は国防上、外国機が自由に飛ぶことは禁じられていました。
鹿児島の飛行場を外国飛行機の離着陸地とし、内地へは日本の飛行機に乗り換える計画であったそうです。

飛行場建設候補地として吉野高原、紫原、谷山小松原海岸、新川尻などが挙げられました。
水上機のことも考慮しなければならず、吉野高原と紫原は除外されました。
谷山小松原海岸が最適地でありましたが、鹿児島市外であることと県当局に熱意がなかったことから、昭和8年新川尻に決定されたのでした。
『勝目清回顧録』に詳しく掲載されていますので、参照ください。

海軍航空隊鹿児島基地
昭和13年3月、新川尻埋立工事が始まりました。当初13万坪の予定でありましたが、政府の命により飛行場面積は25万坪に拡張されることになりました。
この時から、鹿児島飛行場は国防基地としての役割を期待されたようです。
昭和15年、長さ1500m、幅650mの飛行場が完成。

同16年1月には海軍が徴用(強制的な接収)、海軍の飛行基地としてスタートしたのでした。
同時に、第一航空艦隊の艦攻、水平爆撃嚮導機の錬成基地として使用されました。
真珠湾攻撃後の昭和17年以後、戦闘機隊の錬成基地となりました。

滑走路について
航空隊時代の滑走路について調べてみましたが、判然としません。
昭和47年の南日本新聞「サヨナラ鴨池空港」という連載記事では、滑走路の長さを1200mとしています。
終戦直後の鴨池空港と記された写真が掲載されています。1200mの滑走路が一直線に伸びていますが、いろいろ考えるに昭和20年後半か昭和30年のものかもしれません。
ダイエー郡元店1階、電車通り側で昔の鴨池周辺の写真展示を行っています。
前述の新聞記事に掲載されている写真と同じものが展示されていますので、ご覧になってみてください。

『鹿児島市議会史100年あゆみ』によると、昭和28年5月25日付、運輸省は鹿児島飛行場の設置許可を公示。滑走路の長さ550m、幅30mで民間飛行場としてスタートしたそうです。
滑走路の長さ1200m、幅30mに整備されたのは、昭和31年のことでした。

『薩摩パールハーバーの男たち』、『アジア・太平洋戦争と鹿児島戦跡調査 鹿児島市と県央部編(生協コープかごしま)』も航空隊について触れています。
滑走路については、「幅25mの1基、特設:北側に空母着艦訓練用の滑走路」と記述され、長さについては触れていません。
奇襲 南日本ブックス (薩摩パールハーバーの男たち)』によれば、作者は昭和16年8月海軍航空本部がまとめた「航空基地一覧」を参考にしたようです。
筆者は「航空基地一覧」を探し出せずにいます。お持ちの方がおられましたら、拝見させてください。

鴨池飛行場の名残
掲載した写真は、鴨池飛行場の東端に当たると思われる所です。
場所は、”おいどんが市場”近くになります。

kamoikehikoujou101.jpg

今では使用されない、古い石垣と思われます。飛行場建設当時のものかどうか、ハッキリわかりません。
昭和26年10月14日のルース台風がもたらした高潮によって、飛行場の護岸が一部決壊したそうです。(鹿児島市政だより1951・10・31 31)
この頃に補修されているかもしれません。

鹿児島航空基地については史料が少なく、分からぬことばかりです。
参考資料、情報がありましたらお寄せくださると有難いです。
次回は、予科練について触れてみます。
posted by ぶらかご.com at 00:33| Comment(0) | 鹿児島の近代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。