2016年06月02日

下荒田町の読み方

鹿児島市の町名のなかには、上伊敷町(かみいしきちょう)と下伊敷町(しもいしきちょう)のように「かみ」と「しも」で対になっているものがあります。

『寛政十二申年写之 諸郷村附浦附』という書物に「上伊敷村(かみいしき)」「下伊敷村(しもいしき)と読み仮名付きで掲載されています。
寛政十二年は西暦1800年、この時代には「かみいしき」「しもいしき」と呼ばれていたようです。

また「上町(かんまち)」と呼ばれる地域がありますが、藩政期にはそれに対して「下町(しもまち)」もありました。「下町(しもまち)」という呼び方は、現在なくなってしまいました。
二つの町名は、『寛政十二申年写之 諸郷村附浦附』に読み仮名付きで掲載されています。
西暦1800年頃には、「かんまち」と呼んでいたようです。
また、「かんまち」の「かん」は、「かみ」が変化したものでしょうから、ふたつの町は“対(つい)”になっています。

江戸期の加治屋町は、「上之加治屋町」と「下之加治屋町」に分かれていました。
それぞれ「うえんかんぢゃまち」「したんかんぢゃまち」と読み、「うえ」と「した」で対になっていました。

漢字では“対”になっているものの、読み方がそうでない町名が鹿児島市内にあります。
「上荒田町」と「下荒田町」です。それぞれ「うえあらたちょう」「しもあらたちょう」と呼んでいます。
前々から気になっていたことから、この際、少しばかり史料に当たってみました。

荒田村
『鹿児島県地誌』や『鹿児島城下 下荒田郷土史』(昭和11年)によれば、上荒田町・下荒田町は荒田村と呼ばれるひとつの村であったそうです。
「藩政時代には荒田村と呼ばれてゐたが、古くから地形上中央に横はる八幡田圃を隔てて、上荒田・下荒田と呼んで居た」(鹿児島城下 下荒田郷土史)

江戸期には上荒田・下荒田という呼び方はあったようですが、八幡田圃のことがよく分かりません。「八幡田圃」という言葉は、筆者の不勉強のため『鹿児島城下 下荒田郷土史』以外では見つけきれていません。

『薩藩沿革地図』や『鹿児島市街実測地図』(明治30年)などを見ると、加治屋町から高麗橋を渡れば、目の前に広大な田畑が現郡元町まで広がり、高麗本通となる道が鴨池1丁目辺りまで走っていたようです。
高麗本通と荒田八幡神社の間に広がっていた田畑のことではないか、と考えているところです。「荒田んたんぼ」という呼び方もあり、まだまだ史料に当たる必要があるようです。

上荒田町・下荒田町の読み方
@『古地図に見る鹿児島の町』(豊増哲雄)
同書で上荒田町と下荒田町に関する記述があります。
上荒田町には読み仮名が付けられていませんが、下荒田町には「したあらた」とあって、次のように記しています。

「武の橋を渡って南下した武家屋敷群は、谷山街道を軸として左右を占めるようになり、武村と荒田村をえぐるような形で広がり、のちに下荒田(現在は下荒田(しもあらた))と呼ばれるようになった。」

作者の豊増さんは、戦時中、旧交通局の西側に住んでいたそうです。下荒田は隣町ですから、古い呼び方を知っていたと思われます。
また、わざわざ「したあらた」と読み仮名をつけ、「現在は下荒田(しもあらた)」と記していることから、何らかのこだわりがあったのかもしれません。

A勝目清遺稿集つれづれ草 「加治屋町の呼び方」
 同書にも下荒田町に関する記述があり、次のように記しています。
「似たようなことが下荒田町にもあります。下荒田もいつごろからともなく、シモアラタと呼んでいますが、シタアラタが正しい呼び方であります。上荒田(ウエアラタ)に対して下荒田はシタアラタが正しい呼び方であります。」(昭和42年1月)

 最近、筆者がとくにお世話になっている、1945年にアメリカ陸軍が作成した鹿児島市の地図を見てみます。「SHITA−ARATACHO (AREA NAME)」、「UE−ARATACHO(AREA NAME)」と記載されています。
これらのことを考えると、下荒田町は「したあらた」と読むことが本来的なものかもしれません。
そうして、上荒田町と下荒田町は、「うえ」と「した」で対(つい)になることができると言えそうです。



posted by ぶらかご.com at 01:02| Comment(0) | 地名・町名にまつわる話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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