『鹿児島市戦災復興誌』は、この日の空襲について次のように記している。
昭和20年3月18日午前5時42分、鹿児島市役所屋上のサイレンが空襲警報を報じた。(途中省略)午前7時50分頃、米グラマン・カーチス等の艦載機40機が桜島上空に現れ、郡元町の海軍航空隊を急降下爆撃した。
同書によると、この日の空襲は1波である。戦争体験談を読み進めるうちに、違和感を覚え始めた。1回だけであったろうかと。
たとえば、『鹿児島県の空襲戦災の記録 第1集鹿児島市の部』に掲載された体験談と異なる。
当時、松原国民学校で教師をしていた方は、「夕方まで波状空襲で」と記している。
また、郡元町は涙橋の近くで雑貨店を経営されていた方はこう述べている。
「この日の空襲では軍関係の施設が焼けました。予科練の訓練所・兵舎等、一日中赤々と燃えていました」
お店と鹿児島海軍航空隊と航空施設は、目と鼻の先。記憶が鮮明だったかもしれない。海軍の変電所にも触れてくれている。また、4月8日の空襲も書き残されている。この方の証言は貴重である。
昭和47年3月25日付南日本新聞の「サヨナラ鴨池空港」に、3月18日の空襲に関する記述がある。この記者さんは、空襲の記憶を持っていたかもしれない。
「20年3月18日の午前と午後に分れた米軍の最初の爆撃は正確をきわめ、鹿児島航空隊の予科練兵舎、消防車、水そう、鹿児島航空基地の兵舎、格納庫、ガソリンタンクは、ものの十数分で焼け落ちた」
ようやく、昭和20年3月18日にあった鹿児島飛行場攻撃の米軍資料に目を通し終わった。この日、同飛行場を襲った米軍機は、200機近くになった。見つからない攻撃隊の書類もあるから、まだ増える可能性がある。
米軍資料の内容は、『鹿児島海軍航空隊 予科練習生の記録』に掲載されている体験談と合致する。下記の手記は正確であろう。
この日、鹿児島空や周辺の航空基地を攻撃した敵機は、数機によるものを含めると、六、七波によって行われ、機数については公表されていないが、数百機に達すると考えられる。
鹿児島空に投下された爆弾の炸裂穴は、実に二百を超え、その規模は小型機に搭載のため、二、三百瓩までの中型以下であるが、実戦基地でない一施設に対するものとしては、きびしい攻撃であった。
■汽車への攻撃
米軍資料を読んでいて、鉄道車両と船舶への機銃掃射の記述が多いのに気づいた。
走行中の汽車や停止していると思われる車両に、機銃掃射をしている。なかには、爆発し煙を吐いたとする記述がある。出水飛行場攻撃後の帰還途中、加治木と国分の間で汽車に機銃掃射した旨の報告がある。未確認と記されているから、判然としない。
鉄道車両への銃撃は、当時の鹿児島日報にも記されている。軍事機密にあたるのだろう、場所や時間がわからない。鉄道被害を記した当時の資料が発見されれば、米軍資料ともすり合わせができるのだが・・・。
■船舶の攻撃
米軍機は鹿児島飛行場だけでなく、鹿児島湾上の船舶を目標に攻撃を行っている。米軍は桜島東側と記すが、日本側は桜島錨地と呼んでいたようである。商船厦門丸の戦闘詳報によると、この日の空襲は6時50分から16時45分まであったそうである。
厦門丸は、3月1日に大島郡古仁屋港で艦載機の襲撃を受けている。桜島錨地で船体修理中の攻撃であった。同船戦闘詳報によると、船団を組んでいたようだ。錨地には十数隻の商船と護衛する船舶があったと思われる。
『桜島郷土誌』にも記されている賢洋丸も、この日に桜島錨地にいた。佐世保から海軍部隊と軍需品、舟艇などを搭載して那覇に向かう途中で爆撃に遭っている。
3月18日13時、爆弾一個船倉に命中、至近弾多数。火災が発生し、消火にあたるも浸水増大。船体が左に傾くと機関が爆発し、ついに沈没。便乗者98名と船員5名が亡くなっている。
これらの他に、鹿児島湾南部や薩摩半島西部の海上を走行中の船舶にも銃撃を加えている。なかには、fishing boat(漁船)に攻撃した旨の報告まである。
この日の空襲は、大きな意味を持っている。飛行場攻撃が凄まじかったというだけでなく、船舶への攻撃が近海にまで及んできたことである。米軍資料に目を通したあと、『日米開戦勝算なし』を読み直した。
米軍は開戦当初から船舶攻撃を計画的に行っていた。石油やボーキサイト、鉄鉱石などの素材輸入に頼る日本経済のアキレス腱になる。日本の輸入品は、米や砂糖などの食料品も大きな割を占めていた。食料自給率も低かったことがわかった。現代も同じである。
『日米開戦勝算なし』に、アメリカ戦略爆撃調査団文書「The War Against Japanese Transportation」(対日輸送攻撃戦)の訳文が一部掲載されている。
1945年1月中旬に、アメリカ軍の機動部隊は南シナ海で大規模な輸送船掃蕩作戦を行い、残っていた日本の商船隊の10%を撃沈した。4月に沖縄作戦が始まって、日本本土とシンガポールの航路は完全に断ち切られた。
1945年3月、B29による機雷敷設作戦がはじまり、日本の海上輸送は完全に麻痺した。下関海峡は事実上封鎖され、最後は日本海に面した日本と朝鮮のすべての港は機雷封鎖のために使用不能となった。
最後に日本国民は食糧不足に苦しめられた。人手不足、輸入肥料の欠乏によって農村の食糧生産は減少した。もともと日本は食糧の自給はできない国であったため配給率をいかに減らしても多量の穀物を輸入するほかなかった。
1945年4月には食糧事情が極度に悪化した。残り少ない船舶を食糧と食塩の輸入にあてることを日本政府は決定した。言い換えれば、日本は1945年春には完全に孤立していたのだ。日本経済を支えてきた原料基盤は断たれた。
鹿児島県の空襲に関する報道は、昭和20年6月17から18日にかけての空襲が中心である。鹿児島大空襲と呼ばれている。鹿児島市の空襲は8回あったとされる。この日の空襲が中心になるものだから、その他の被災がかすんでしまう。地元テレビ局が3月18日の空襲を報じるのを目にした覚えはない。
3月18日の空襲について、ざっとした内容で記した。読んで下さった方にお願いしたい。鹿児島市史や鹿児島市戦災復興誌が記す空襲の記述を、鵜呑みにしてはいけない。書かれている内容は、やはりおかしい。空襲の回数もそうである。関心をもってくれる方が一人でもあったなら、幸いである。
■参考文献
『鹿児島市戦災復興誌』(鹿児島市1982年)
『鹿児島県の空襲戦災の記録 第1集鹿児島市の部』(鹿児島県の空襲を記録する会1985年)
「サヨナラ鴨池空港」昭和47年3月25日付南日本新聞
『鹿児島海軍航空隊 予科練習生の記録』(鹿児島海軍航空隊隊誌編集委員会2000年)
『桜島郷土誌』(桜島町・昭和63年)
『太平洋戦争日本の敗因1 日米開戦勝算なし』(NHK取材班・角川文庫平成11年)