しかし、1945年5月15日発行の米軍文書を読みすすめるうちに、疑問をいだき始めた。
同書に掲載された写真を数枚掲載する。いずれも国会図書館デジタルコレクションから転載した。著作権保護期間満了の画像である。
■1944年12月12日
Looking northwest across KAGOSHIMA Wan from a point approx. four miles west of KANOYA , showing TARUMIZU Beach Area . From 444BG/L023 of 12 Dec 1944 と記されている。
垂水町と古江港(鹿屋市)が写されている。撮影日は1944(昭和19)年12月12日。

3枚の写真のうち、右下が垂水・古江港の写真
■1944年12月26日
この日に撮られた写真は多い。都城市にあった川崎製作所や旧谷山町にあった田辺航空工業鰍ネどの工場を移した写真。鹿児島市街地や旧山川町の港などの写真が掲載されている。
それらの写真に、「sortie 444BG / 4MR50 / XXBC 26 Dec 1944」と記されている。

田辺航空工業鰍フ写真

鹿児島市の写真

山川港の写真
■1945年1月1日
この日の日付で、有明湾や国分飛行場の写真が掲載されている。「KOKUBU AIRFIELD Srotie 40BG/5MF2/XXBC , 1 Jan 1945」とある。
鹿児島日報や鹿児島市史2巻に記されたB29は、これかもしれない。
XXBCは第20爆撃機集団である。同集団は、中国大陸の成都に基地を構えていた。
『米軍資料八幡製鉄所空襲 B29による日本本土初空襲の記録』に、第20爆撃機集団に関する記述がある。
同集団に第58爆撃航空団があり、その下に4つの群団を擁していた。
第40、第444、第462、第468である。群団はそれぞれ4個戦隊から構成され、1個戦隊のB29は7機であったそうだ。
1945年5月15日の文書に記された「sortie 444BG、Srotie 40BG」は、第20爆撃機集団所属の航空機をしめしているようだ。鹿児島県内に米軍機もしくはB29が飛来した時期は、これまで言われてきたよりも、早かったかもしれない。
可能性は高いと思われる。より確実性を高めるために、第20爆撃機集団の偵察行動を記した文書で確認するほかない。
研究者のなかに、資料をもっている方がいるかもしれない。
■参考文献
『米軍資料八幡製鉄所空襲 B29による日本本土初空襲の記録』(北九州の戦争を記録する会・2000年)