報道に接していると、不発弾の「発見」と「処理」の説明で終わるのではないか。
何かもの足りない。
不発弾がみつかった現場は、新川沿いの老健施設ひまわりの周辺らしい。
なぜ、そこに100ポンド普通爆弾がみつかったのか? といった疑問がわく。
時間を、昭和20(1945)3月18日にまで遡ってみる。
この日、新川の両岸にあった軍事施設は大規模な攻撃を受けているからである。
今回見つかった100ポンド不発弾と関係があるかもしれない。

米軍の偵察写真や米軍作成地図、日本海軍などの資料に目を通してみる。
不発弾が見つかった周辺に、屋根の形状がギザギザした建物が集住していたようである。
もとは紡績会社の施設として、一時期、鹿児島海軍航空隊も使用していたようである。
同航空隊の練習生が戦後に作成した平面図がある。「ノコギリ形屋根」と記している。
米軍資料「AIRCRAFT ACTION REPORT(艦載機戦闘報告書)」に、「SAW TOOTH ROOF」とある。両資料ともに、鋸歯状屋根として認識していたようである。
鋸歯状屋根をもつ建物群。紡績会社から鹿児島海軍航空隊の施設として使用されたのだが、それ以後が判然としない。米軍の艦載機戦闘報告書にそれとわかる記述がある。

上記の図は、鹿児島飛行場周辺にあった施設を知るために作成した。兵舎や格納庫、掩体壕、滑走台などをしるしてみた。
■艦載機戦闘報告書
今回、鹿児島市真砂本町で発見された不発弾は、100ポンド普通爆弾とみられている。
「鋸歯状屋根への攻撃」と「100ポンド普通爆弾」にしぼって、米軍の艦載機戦闘報告書をながめてみる。
昭和20(1945)年3月18日、鹿児島飛行場と新川の両岸にあった施設は大規模な攻撃を受けている。艦載機戦闘報告書に目を通すと、100ポンド普通爆弾を投下した艦載機があった。「TBM3(アベンジャー)」である。攻撃は3回。
1. 空母サンジャシント
TBM9機が、100#GPを搭載して同空母を午前6時45分に発艦。目標上空到達時刻、午前8時45分。「Aircraft Assembly plant west of hangers(格納庫西側にある機体組立工場)」に同爆弾71発を投下した旨を記している。

機体組立工場を攻撃中の写真である。(国会図書館デジタルコレクション)
2. 空母バターン
TBM9機とF6Fヘルキャット8機が、同空母を午前6時45分に発艦。目標上空到達時刻は、午前8時50分。「Large plant with saw tooth roof(鋸歯状屋根をした大工場)」に100ポンド爆弾20発を投下。
報告書は攻撃目標の工場について、こう記している。
Six VT pilots aimed at the “building with saw tooth roof “, possibly an aircraft assembly plant (6機の雷撃機パイロットが、航空機組立工場の可能性がある鋸歯状屋根の建物に狙いを定めた)
3. 空母フランクリン
TBM15機が同空母を午前7時に発艦。目標上空到達時刻は午前9時。「Textile plant(繊維工場)」に100ポンド爆弾を1発投下と、記す。
同艦は昭和20(1945)3月19日に、特攻によって大破。火災によって艦載機戦闘報告書の原本は失われ、2週間後に再度作られたとある。投下された爆弾数と出撃数と合わない気がしている。同報告書の内容について、すこし注意する必要がある。
「100ポンド普通爆弾」と「建物」を中心にして記した。米軍艦載機は、同工場に対してロケット弾や500ポンド爆弾などを使って攻撃している。
米軍が攻撃した工場は、おそらく「第22海軍航空廠鹿児島補給工場」であろうと、筆者は考えている。
同工場に関する書類として、終戦直後に作成された文書がある。新川の河口から見て右側に同工場の「郡元倉庫」として使われた時期があったらしい。
第22海軍航空廠鹿児島補給工場に関する情報は乏しい。存在したのは間違いない。
鹿児島飛行場への大規模な攻撃があった、昭和20年3月18日を取り上げてみた。同飛行場は、3月29日も攻撃を受けている。そのほかの空襲も調べる必要がある。
鹿児島市真砂本町で見つかった、不発弾に関する手がかりのひとつとして触れてみた。
あともうひとつ。
米軍の艦載機報告書から、TBMアベンジャーの攻撃を3件とりあげた。
目標上空到達時刻を、あえて記した。それは、『鹿児島市史2巻』と『鹿児島市戦災復興誌』に記された、昭和20年3月18日の空襲に関する記述を再読して頂きたいためである。