不発弾が見つかった周辺に、かつてノコギリ状の屋根をもつ建物群があり、米軍艦載機の攻撃を受けている。
その際、事件が起きた。
1945年3月18日午前6時45分、空母バターンからアベンジャー9機とヘルキャット8機が発艦。攻撃目標の鹿児島飛行場へと向かう。目標上空到達時刻は、午前8時50分。

6機のアベンジャーは、「Large plant with saw tooth roof」に100ポンド普通爆弾20発を投下。搭乗員たちは、鋸歯状屋根への命中と閃光・爆炎を確認している。
対空砲火は激しかったらしい。
「高度2万フィートで、正確にして激烈、絶え間ない対空砲火に遭遇。鹿児島湾の東海岸から、すべての飛行群が回避行動をとった」
「鹿児島の北部と南部で、対空十字砲火に気づき回避」
そうして、1機のアベンジャーが対空火器で撃墜された。米軍資料は記す。
Ensign MARVIN’s plane was burning along the right wing and was last seen west of Kagoshima after the attack,
(抄訳;マービン少尉機は、右翼が炎上。攻撃後、最後に目撃されたのは鹿児島市西方だった。) おそらく、墜落していく様子を記していると思われる。
この時、2人の搭乗員が死亡している。
James A. Marvin海軍少尉とEdward H. Hintz2等射撃兵曹である。
■日本側資料
この日の戦争体験談に目を通してみると、田上町方面へ墜落するグラマンを目撃した証言がある。同時代資料の鹿児島日報は、どのように報じたか。昭和20年3月19日付の同紙をめくってみる。
山中に醜い残骸 市民の眼前で撃墜される
午前〇時すぎ白煙を曳いて〇〇山中に焔の錐揉みで突ツ込んで行く醜翼の後を追ふて記者は敵機頭上に在る市街地をひた走りに墜落現場に駈けつけた
通称垂角迫と云ふ高い山を超えると『居った』松林に蔽はれた畑に醜翼の残骸がブーブーと燃えつづけてゐた。墜落現場には既に〇〇警防団員が駈けつけて燃えつづける機体の劫火を盛んに消し止めてゐた、緑色の機体は正しくグラマン戦闘機だ麦を植えつけた畑の中に一間位突ツ込んで機体はばらばらになってゐた そうしてブスブスと焼けただれた米鬼の醜翼が胴体を逆様にして皇土を汚した天罰を思い知らせてゐる発動機もひん曲って翼もほとんど後形ももない位になってゐる。
機首を畑に突ツ込んで逆様になった機の胴体の中程から白い毛をむき出しにした米鬼がうつ向きになって焼けただれ、小気味よい惨状をさらしてゐる。
記事のなかに〇〇とあるのは、伏字。当時の新聞記事によく見られる。「〇〇山中」と「〇〇警防団員」の伏字部分は、「田上」に置き換えるとよい。
■山形屋で展示会
昭和20年3月22日付鹿児島日報に、「敵グラマンの醜翼 廿五日から山形屋で公開 本社主催」と題する記事がある。
聖地を侵した醜翼残骸を二十五日から一週間鹿児島市山形屋二階で一般に公開することになった、十八日朝突如鹿児島縣に来襲した敵の艦上機群は(以下省略)
本社では鹿児島地区防衛隊の斡旋提供によってグラマン撃墜残骸を一般に公開して敵への憤怒を新たにせんとするものである。
公開内容は、胴体、翼、機関、砲弾、操縦者の写真、証明書、拳銃、落下傘、撃墜原盤の写真などであったらしい。
■終戦直後のこと
『上区の郷土史21世紀を担う子孫のために』(鹿児島市田上上区町内会)に、注目すべき記事を掲載している。終戦直後、米軍がグラマン墜落現場に訪れたらしい。
戦後、米軍MP(憲兵)が、当時警防団長(消防団長)だった父を逮捕し、現場検証の折「米兵戦死の地」の立札の意味を質問した。
父は、薩摩古来のしきたりとして、「敵とはいえ、立派に戦った者は称え、ねんごろに弔う意味だ」と答えたところ、彼等は感心して鄭重にジープで自宅まで送り返してくれた。
戦後、米軍機が墜落した現場に調査に訪れているのは分かっている。「POW研究会」が、研究報告をネット上で公開しているので、感心のある方はご覧ください。
米軍は、聞き取り調査を記録として残しているらしい。おそらく膨大な数になるだろう。鹿児島に関する記録も多数あると思われる。
これまで知られていなかった事実が、少しずつ明るみになるだろう。そこには、不都合な事実があるかもしれない。
■関連記事
「鹿児島市真砂本町の不発弾について」
http://burakago.seesaa.net/article/502692949.html
「鹿児島市真砂本町の不発弾」
http://burakago.seesaa.net/article/502589768.html
「昭和20年3月18日の空襲 鹿児島市」
http://burakago.seesaa.net/article/489108677.html
■参考文献
鹿児島日報 昭和20年3月19日付